巡礼の旅はいつも孤独なものだとルーチェは思っていた。黄色いフードを深くかぶり、聖なる杖を頼りに歩く日々は、静寂と祈りに満ちている。しかし、その日は違った。道を進んでいると、ふと鼻をくすぐる香ばしい匂いに足が止まった。
ルーチェは辺りを見回した。そこには、小さなラーメン屋がぽつんと佇んでいた。木製の古びた看板には「らーめん一福」と書かれている。聖地へ続く山道の途中に、なぜこんな店があるのか不思議に思いながらも、彼の胃がぐうと鳴った。朝から何も食べていないことを思い出した。
「これも神の導きか……」と呟き、ルーチェはラーメン屋の暖簾をくぐった。
店内は狭く、カウンター席が五つほどあるだけだった。湯気が立ち込め、スープの芳醇な香りが充満している。カウンターの向こうには、年配の男性が一人、ラーメンの大鍋を見つめていた。頭に巻いた白い手ぬぐいは、何度も使い込まれたように色あせている。
ルーチェは空いている席に腰を下ろし、静かに言った。「一杯、お願いできますか?」
店主は一瞬ルーチェを見て、少し驚いたように目を細めた。黄色いフードをかぶった旅人は珍しいのだろう。「おやおや、巡礼者さんかい?こんな山道を歩くなんてご苦労なこった。まあ、腹が減っちゃ何も始まらん。ちょっと待ってな。」
ルーチェは杖を立てかけ、両手を組んで祈りを捧げるような仕草をした。「感謝いたします。神の恩恵があなたにありますように。」
店主は手際よく麺を湯に泳がせ、チャーシューを切る音が響く。しばらくすると、湯気をたっぷりとまとったどんぶりが目の前に置かれた。スープは黄金色に輝き、トッピングはシンプルだが、心を引き寄せる美しさがある。
「さあ、召し上がれ。」店主が優しく微笑んだ。
ルーチェはどんぶりをじっと見つめ、深く息を吸い込んだ。「……なんて、芳しい香りだ。」
「そりゃあ何十年も鍋を火にかけ続けてるからな。悪いものは作れんよ。」店主は少し照れくさそうに言った。
ルーチェは箸を持ち、そっと麺をすくって口に運ぶ。スープの旨味が広がり、体の芯から温まるような感覚がした。「これは……まさに祝福だ。」
店主は笑い声を上げた。「ははっ、そりゃあ大げさだな。だが、そう言ってもらえると嬉しいよ。」
ルーチェはしばらく無言でラーメンをすすり続けたが、ふと顔を上げた。「この道に、ラーメン屋を構えている理由はなんでしょうか?こんな場所、人通りも多くないはずです。」
店主は一瞬、箸を持つ手を止めた。そして、遠い目をして答えた。「……まあ、そうだな。昔はここも賑やかだったんだよ。旅人がたくさん通ってさ、皆楽しそうに笑ってた。商売もうまくいってたんだ。」
「今は違うのですか?」
「うん、今じゃほとんどの人が便利な道を選ぶ。車が通れるトンネルができてから、ここを通る人は減っちまった。」店主は肩をすくめて笑ったが、その笑いはどこか寂しげだった。「けどな、俺にはこの場所に特別な思い出があるんだ。」
ルーチェは静かに耳を傾けた。「思い出、ですか?」
「若い頃、俺は妻と一緒にこの店を始めたんだよ。妻は料理が得意でな、俺のスープに絶妙なトッピングを考えてくれた。お互いに支え合って、この山道を行く人たちに温かい食事を届けようって決めたんだ。そうすりゃ皆、旅の疲れも少しは癒されるだろうって。」
店主の声はどこか懐かしさに染まっていた。「だが妻は早くに亡くなっちまってな。それからはずっと一人だ。でも、ここを離れる気にはなれない。妻と一緒に作ったこの店は、俺の人生そのものだからさ。」
ルーチェは店主の目を見つめた。彼の瞳には、深い悲しみと誇りが混ざり合っているのがわかる。「それでも、こうして店を守り続けているのですね。」
「ああ、そうだ。妻が天国で見ていても恥じないように、うまいラーメンを作り続けているよ。たとえ客が少なくてもな。」
ルーチェはどんぶりの最後の一滴を飲み干し、満足そうに微笑んだ。「それは……神への供物のようなものですね。」
店主は目を丸くしたが、次の瞬間にはまた微笑みを浮かべた。「まあ、そういう考え方もあるかもな。ありがとうよ、巡礼者さん。俺もなんだか救われた気分だ。」
ルーチェは席を立ち、腰に手を当ててお辞儀をした。「美味しいラーメンを、ありがとうございました。」
「こっちこそ、話を聞いてくれてありがとよ。お前さんの旅が無事に終わることを祈ってる。」
ルーチェは杖を手に取り、暖簾をくぐって店を出る。外の空気はひんやりと冷たいが、体の中にはまだスープの温もりが残っていた。振り返り、彼は小さく手を合わせた。
「祝福あれ。」
その言葉は風に乗って、ラーメン屋の店先に舞い戻った。店主は暖簾を揺らす風を感じながら、そっとつぶやいた。「おう、ありがとうな……」
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