DQN(ドキュン)とは平成ネットスラングの一つで『目撃!ドキュン』に出てくるヤンキーみたいな人のことをさす。ヤンキーともかぶっているところはあるが、よりアウトローで常識外れの人をDQNという。その代わりにヤンキーはDQNが出てきたことによってアウトロー感が薄れてマイルドヤンキーという一昔前ではヤンキーとはいえないような人がヤンキーの大半を占めている。ガチのギャングがDQNで、ファッションでギャングやっているのがヤンキーみたいな感じ。でもDQNは『目撃!ドキュン』がもうやっていないから、ふたたびヤンキーに言葉の意味を巻き取られていくと思う。

DQNもヤンキーも昭和でいう不良である。どんな言葉にも寿命はあるようで、不良とは最近は聞かなくなった。教科書か教本ぐらいのフォーマルなところでしか使われないのではないか。あとは体調不良。でもこれは不良の言葉とは関係ない。体調ヤンキーだと不良と違って元気そうなイメージがある。体調DQNはちょっと想像できない。

そんな言葉遊びはおいておこう。

『たくぴとるか』にはDQNが出てくる。推敲していて「あれ、DQNってそういえば最近聞かないな」って気付いたのである。でも作中に出てくるのがヤンキーだとしっくりこなくて、これDQNだよなぁ、う~ん、ヤンキーはDQNの意味を包括しているからヤンキーにするべきか……と迷っていたが結局DQNにしてしまった。10年後にはヤンキーと書き直しているかもしれないが、今はまだDQNがしっくりくる。

実在のヤンキーはともかく、創作としてのヤンキーはすでにひとつの文化である。伝統芸能に近いものがある。なんなら私だって好きである。すべてのマンガ雑誌からヤンキーマンガが消えるなんて、ちょっと想像できない。あ、でもヤンキー小説ってあんまり聞かないよね。なぜなんだろう? やはりヤンキーはファッションであり、ヴィジュアルがなければ成立しないのだろうか。

ヤンキーの魅力は既存の秩序に挑戦するバサラ的なところだと思っているが、それならむしろ小説の方が戦える分野のはずだ。なのに、ヤンキー小説は驚くほど少ない。ヤンキーマンガで検索するといくつか出てくる。最近のだと『東京リベンジャーズ』が上の方にある。でもヤンキー小説はネット小説なら出てくるが出版社から出ている小説は0だ。下の方にヤンキーとタイトルがついているのは出てくるが、ヤンキーに好かれるっていう少女マンガの文脈でのヤンキー小説(?)だ。これはどういうことだろう。

そう考えてみると、もはや小説自体がヤンキーなのではないかという説をひらめいた。魂がヤンキーならヤンキーである必要はない。前衛的な小説ほどそうなっていく。私の小説は前髪が立っているだろうか? 分からない。でも俺の小説で世界をぶん殴ってやるぜって気概はいつも持っている。なかなか当たらないけどね。そろそろぶっ倒せそうな気がする。次はヤンキー小説書いてみようか。

(おわり)

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