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『たくぴとるか』は前半と後半で文体が違う。執筆が後半にさしかかった時「いよいよ本番が始まったぞ」と独り言が出たものだ。前半はしょせん実験的な文体であって、後半こそが”本当”の文学だって気持ちがあった。

しかし書き終わって推敲を数回すると「どうも前半が良いっぽいぞ」と首をひねった。AIに放り込んで文学的採点させると前半90点、後半85点だ。後半はまだ最後まで書いていなかったのでなんとも言えないが、前半は途中でも85点以上を保っていたので地力はまちがいなく前半にある。

しょせん私が”本当”で参照しているのは過去の文学であって、まだ存在しない文学ではない。前半の文体で書くのは難しい。でも、これこそが新しい文学なんじゃないかって気がする。

いやいや『たくぴとるか』の内容を前提にすれば神と同じように本当の文学なんて存在しない。玉ねぎのように皮を剥いていったら、中には何にもなかったということだ。もし文学が存在しないなら、私が文学を造ることが可能ということになる。これってすごいことだぞ。もしかしたらとんでもないものを掘り当てたかもしれない。

『たくぴとるか』は牛野小雪season4の第一弾だ。これからの牛野小雪を占うことになる。たぶん私はseason4を通して”本当”を削っていくんじゃないかな。数年後には前半の文体を手癖で書けるようになっているはず。

でも”本当”の文学ってなんなのかな。私が”本当”と思っていたものをseason3までは追いかけていたわけだがseason4でそれを外すということは目的地を失うことでもある。AIだって前半部分はどこへ向かっているか分からない点が100点にならない原因と言っていた。AIは正しい。実際に前半はどこへも向かわない。

どこにも向かわない文学っていいんだろうか? これって文学病では? 純文学がつまらない理由に物語が進まない日常の小さなことばかり書いているっていうのがある。これにハマってしまった気もする。でも前半は何回でも読めるんだよな。後半は5回も推敲してると飽きてきた。たぶんそれは後半で物語が進むからで、物語られている物語を自分の中に取り込んでしまえば飽きてしまうという当たり前の話なのだろう。

一般人との感性がズレたら小説家なんて終わりだ。逸般人相手の文学なんてやっかいオタクしかいないぞ。でもやっちゃうんだろうな。はぁ、バカだな。でもやっかいオタクさえ釣れない小説を書いているのはどうしたものか。私しか釣れていないじゃないか。

『たくぴとるか』に豊臣秀夫という人物がいるのだが、彼の喋る言葉なんて言葉遊び以外のなにものでもない。るかの歌う歌詞もだ。AIに分析させてどんな解釈が飛び出すのかがひそかな楽しみだった。ちなみに冒頭で出てくるるかの歌詞はこんな感じ

『僕は好き好きなによりも』歌:るか 作詞:たくぴ

僕は好き好き なによりも
ベッドの上でも 君が好き
心の底で きみを見つめる
別の女は おばかさん
すべて退屈なお約束
宇宙はステキ UFOにキス
きっとマジメ? においをかぐよ

どうでもいいよ そこがいい
絶対いない ウザイから
笑いものは 意識してる
百人抱いて殺し合い
すぐ謝って 話し合った
どうでもいいよ そこが好き
まだ続いている 現実の
日が落ちる 一フィートまで
どうでもいいよ どうでもいいよ
君が好き好き そこがいい


Claude3.5Sonnetの評論

この歌詞は、恋愛をテーマにした現代的でややユーモラスな日本語の詩または歌詞のように見えます。以下にその内容や特徴について簡単に評論します:

1. テーマ: 主に恋愛と愛情表現に焦点を当てています。

2. トーン: 全体的に軽いタッチで、時にユーモアや皮肉を含んでいます。

3. 構造: 短い文が連続し、リズミカルな印象を与えています。

4. 表現: 直接的な愛の告白と、やや抽象的または比喩的な表現が混在しています。

5. 特徴的な要素:
   - 「好き」という言葉の繰り返し
   - 日常的な場面(ベッドなど)と非現実的な要素(UFOなど)の組み合わせ
   - 矛盾した感情や状況の描写

6. 全体的な印象: 現代的な恋愛観や関係性を反映しつつ、やや混沌とした感情を表現しているように見えます。

この歌詞は、現代の複雑な人間関係や感情を、直接的かつ比喩的に表現しようとしている点が特徴的です。また、真剣さとユーモアを巧みに織り交ぜている点も興味深いです。

season3は『法人税一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇%』あたりから言葉遊びがすぎたので反省したのにまたやってしまった。でもこれも面白いんだよなぁ。いまのところ読者が理解できない以外にやめる理由がない。ちなみにさっきの歌詞を書くのに三日もかけている(笑)。ぼやーっとしたイメージを追っていた期間も入れると1週間を超えている。かなりコストがかかっている文章だけど読者には響かないんだろうなぁ。

こんなことしてるから売れないんだろう。人並みに売れたい欲はあるのに人並みに迎合しようとしないのがいけない。前半と後半で文体を変えるなんてダメだと思う。小説で遊んで、なおかつ売れる方法ってないものだろうか?

売れるとか売れないとか他人を前提にした小説じゃなくて自分の小説を書いていくっていうのが文学の基本路線だけど、それもひとつのスタイルを真似しているだけって気もする。私は私の文学を書かなくちゃいけない。でもそれってなんだろう? それはたぶん『たくぴとるか』やいままで書いてきた小説の中に種が眠っているはずだ。

たとえば『蒲生田岬』の感想で、最初は青春小説かと思ったら後半からミステリーになった、みたいに途中で書き方が変わるのが、おそらく私が無意識に使っているスタイルだ。ちなみにこの記事も前半と後半で焦点が変わっているとChatGPTちゃんに言われた。長所半分、短所半分な評価だ。文体は自由だが、一部の読者には受け入れがたいかもしれないだって。もっと磨かなければならない。

(おわり)