突然だが私のリアル一人称はワイである。なんJ語に影響されているのではなくインターネットが普及する前からワイはワイである。ワイというのは基本的に男が使う一人称なので時々テレビの街頭インタビューで若い女の子が「ワイ」と言っているとビックリする。たぶんあっちはなんJ語由来だろう。
ちなみに女の人は「うちら」とか「あたし」である。このへんだと一人称でなぜか「うち」はつかわない。なぜだろう?
一人称のワイはかなり市民権を得てきた気がする。舞台が地方とかでないかぎりは一人称にワイを使うのはかなりはばかられるだろうが、ネット上のやりとりでは充分に受け入れられるだろう。うちはもうかなり前から使われていて、逆に古さを感じるほどだ。ただし市民権を得たワイと私が使っているワイって別物だよな、とも思う。それがなにかは分からないけどさ。
いま書いている『たくぴとるか』は徳島県の話なので方言が出てくる。たとえば下のようなセリフ
「ちゃうでぇ~。外に出てって言よん。サイトウくんいまのボケたん? おもろいな~」
これをwordの校正機能にかけるとほぼすべての部分が引っかかってしまう。ちゃんとやろうとすれば1ページに半時間はかかってしまうので目視で確認していくしかない。方言で小説を書くのは難しい。そして読むのも難しい。自分で書いておいて言うのもなんだけど方言って読みづらいどころか、メジャーな方言でなければ、もはや何と言っているのか理解不能なものまである。
『たくぴとるか』は徳島県の話ではあるが、むしろ異世界間を出すために使用しているから、読みにくいことが逆に強みにはなるだろうが、小説は共通語で書くべきなのだろうか? とか考える。言葉ではなく考え方とか、行動とかで異世界感出せよとか言えるんだろうけど、そっちの方がなんかリアリティない気がする。
word的に方言は正しい日本語ではない。しかしながらここで書いた文章が正しい方言でもないのも事実である。
最初の「ちゃうでぇ~」も言葉にすればこうなるのだが実際は「でぇ~」の部分にあたる表音文字が存在しないので妥協の産物である。ちなみに大阪の親戚が使う語尾は「でぇ~」ではなく「で」できちっと止まる印象がある。地域差もあるだろう。
徳島県にはあわわとかタウトクというローカルな雑誌があるのだが、読者の投稿欄や発言は方言で書かれているのだが、地元民が読んでも微妙に違う気がする。もちろん読者の声は”正しく”脳内で読まれているのだが、表記通りに読んだら絶対に変な感じになるといつも思っている。
日本語の音素はどんどん減っているらしい。たとえば小学校で習う「お」と「を」はどうして同じ発音なのに二つあるのかと疑問の思った人は多いと思う。実は現代ではどちらも同じ発音だが昔は違っていたらしい。私が書きたかった「でぇ~」はすでに表音から消えた音だ。正しく表記することはできない。
小説において方言は『1984』である。表現する方法がないので、存在すると認識することもできない。認識できないのならいつかは消えていく運命である。うちの家系でもばあちゃんは方言がキツい、両親も時々なにを言っているか分からない時がある。ワイは……?ってことよね。根っこは同じでも標準語の接ぎ木がどんどん継ぎ足されている。もしかしたら次の世紀には文字だけではなく音自体が消えているかもしれない。
言語の多様性だとか方言を絶やすな、みたいなことを考えたりはしないし、むしろ言語は規格統一するべきだろうとぐらい思っている。中国で秦が文字を統一したようなものだ。もし始皇帝がいなかったら中国はいまでも戦国時代をやっているかもしれない。
言葉が統一されれば日本はいまよりもうちょっとだけ豊かになれるだろう。はっきり言ってしまえば地方で言葉が分かれているのはバベルの塔だと思う。世界中の言葉を統一できれば人間は今より神に近付ける。でも、そうやってひとつの世界が消えていくんだなって思うとちょっと寂しい気分になるね。
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