『たくぴとるか』の仮書きノートからwordへ打ち込んでいる。1日に20ページ打てたらいい方で10ページ以下の日もあって、そんなときは今日は書けなかったなと落ち込む。それはともかくぐちゃぐちゃのノートから文章を抜き出してwordに打ちこむと文章が光って見えるのは不思議だ。まっ、パソコンの画面は本当に光っているんだけどね。

仮書きノートは189ページなので1日に平均15ページとしても14日かかる計算になる。最初の数日はすごく調子の良い日があったら1日で書けちゃうんじゃないかとか思ったり、逆に調子が悪くて数ページしか書けなかった時は一生終わらないって絶望したり、でも長い目で見れば当初の目論見通りに進んでいる。やっぱり執筆って物理法則で動いている気がする。いま主流のLLMがそうなるかは分からないがAIで小説を書く日は必ず来ると思う。その時代ではプロットを数式で書くだろう。私なんかは出る幕ないな。

なんで令和になってもノートと万年筆で執筆しているのか。wordも手書きも書く速さは変わらない。でも、どうせ後でwordに打ちこむなら最初からwordで打ちこめばいいのに。目に見えるところだと2週間の時間をコストとして払っているし、もしかしたら執筆中にも見えないコストを払っている可能性はある。事実、ノートに書くようにしてから刊行ペースは落ちている。

それでもノートに書くようにしてからちゃんと文字や文章をがっちり心の手で使っている感触がある。だからノートに手書きする方が正しいんだ、ってつい数日前まで思っていたのだが”見るだけ整体”という本を読んで、もしかしたらこれは自分で自分をだましているんじゃないかって不安になってきた。



この本を読んで、かなり体の動きが良くなった。良くなっただけでなく動きが軽いのである。こう、なんていうか手応えみたいなものなしに動ける感じ。いままで無駄な力が入りすぎていたのだなって分かった。ということは、もしかしたらノートに手書きしているときに感じている手応えが無駄な動きという可能性もあるわけだ。これを抜くことができたらもっと小説を書けるようになるんじゃないか?

無駄なものを削れっていうのは文章でも同じだ。”手応え”って無駄なんだろうか。それとも実際に文章に貢献しているんだろうか。手書きするサンクコストで貢献していると思い込みたいだけなんじゃないか? 疑おうと思えばいくらでも疑える。逆に手書きからwordに変えた時だってある種の”手応え”で「令和にもなって手書きするやつなんてアホだぜぇ!」となることも考えられる。

手書きの方がいいというネット記事もあれば、変わらないという記事もある。実はPCでも手書きでもなくスマホで書くのが正解かもしれない。そういえばドストエフスキーは口述筆記だな。小説を書くと一口に言ってもいろんな書き方がある。私たちはなにが正解か分からないから、自分がやりたい、あるいはやれる方法で書いていくしかないのだろうな。唯一の救いはどういう書き方をしても、書き続けていればいつか小説は書き終わるということだ。

今週も熱狂と絶望を繰り返しながら『たくぴとるか』をwordに打ちこんでいる。

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