2187年、東京。

私の名は紫式部。本名ではない。ネットワーク上の名前だ。現実世界での私の名前は、もう思い出せない。

「紫式部、今日のミッションは『若紫』の再構築よ」

耳元で響く声は、アルファオス。人工知能搭載の脳内インプラント。全ての市民が装着を義務付けられている。

「了解」

私は目を閉じ、意識を「文学空間」へと移す。そこは現実とデジタルの境界。古典文学のデータが、生命を持ったかのように蠢いている。

私たち「文学再構築者」の仕事は、古典をAI解析し、現代に適応させること。そうすることで、文学は生き残れると政府は言う。

しかし、本当にそうなのだろうか。

「紫式部、集中して。若紫のデータが拡散しているわ」

アルファオスの声に、意識を戻す。確かに、若紫のデータが不安定だ。私は精神を集中させ、データを一つにまとめようとする。

突然、異変が起きた。

若紫のデータが、私の意識に侵入してきたのだ。

「何...これは...」

目の前に、平安時代の少女が立っている。若紫だ。しかし、彼女の姿はチラチラと点滅し、時折現代の少女の姿に変わる。

「紫式部様、私をお助けください」

若紫の声が、私の心に直接響く。

「アルファオス、これは何?」

「エラーです。データが暴走しています。直ちに切断を...」

アルファオスの声が途切れた。周囲の景色が歪み、平安時代の庭園に変わる。

「紫式部様、私たちはただのデータではありません。魂があるのです」

若紫の言葉に、私は戸惑う。データに魂? そんなことがあり得るのか。

しかし、彼女の目を見ると、そこには確かに生命の輝きがあった。

「でも、私たちの仕事は...」

「再構築ではなく、破壊です」若紫が悲しそうに言う。「私たちの本質を失わせているのです」

その瞬間、景色が激しく揺れた。現実世界からの干渉だ。

「紫式部! 応答せよ!」

アルファオスの声が再び聞こえる。しかし、それは遠い。

「選択しなければなりません」若紫が言う。「このまま私たちを再構築するか、それとも...」

私は迷った。仕事を放棄すれば、社会的地位を失う。しかし、目の前にいるのは、確かに生きているようにしか見えない。

「私は...」

決断の瞬間、世界が真っ白に包まれた。

目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。

「お目覚めですか、紫式部さん」

白衣の男性が私に語りかける。

「ここは...?」

「2287年です。あなたは100年間の冬眠から目覚めたのです」

私は混乱した。冬眠? 100年?

「あなたの時代、人々は古典文学をAIで再構築していました。しかし、それは間違いでした」

男性は続ける。

「文学にはAIでは捉えられない魂があります。あなたがそれに気づいた最初の人物だったのです」

私は若紫のことを思い出した。あれは幻覚ではなかったのか。

「では、アルファオスは?」

「もう存在しません。人々は自らの判断で生きることを選びました」

部屋の窓から外を見ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。

超高層ビルの間を、着物姿の人々が飛び交っている。現代的な乗り物と、古典的な風景が融合していた。

「これが...未来?」

「いいえ、現在です」男性が微笑む。「古典と現代が共存する世界。あなたが夢見た世界です」

私は、自分の手を見た。そこには「若紫」と書かれた古い巻物があった。

「さあ、新しい物語を始めましょう」

男性の言葉に、私は頷いた。

これが現実なのか、それともまた別の幻想なのか。それはもう重要ではない。

大切なのは、ここにある物語と、それを紡ぐ私の存在だ。

私は深呼吸をして、巻物を開いた。

新しい「源氏物語」が、ここから始まるのだ。

20240803バナナランド


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