20世紀初頭のロシア。広大な帝国の片隅で、一握りの革命家たちが密かに集まっていた。彼らの目には、既存の秩序を根底から覆す炎が燃えていた。これが、ボリシェビキの物語の始まりである。

誕生と成長(1903年〜1917年)

1903年、ロンドンのとある建物で、ロシア社会民主労働党の第2回党大会が開かれていた。会場には緊張が漂い、激しい議論が交わされていた。この場で、党の未来を左右する重大な分裂が起こるとは、誰も予想していなかった。

議論の焦点は、党員資格の定義だった。ウラジーミル・レーニンは、党員は組織の一員として積極的に活動すべきだと主張した。一方、ユリウス・マルトフは、より緩やかな定義を提案した。表面上は些細な違いに思えたが、これは党の本質に関わる重大な問題だった。

投票の結果、レーニンの主張が僅差で勝利を収めた。彼の支持者たちは「多数派」を意味する「ボリシェビキ」と呼ばれるようになり、反対派は「少数派」を意味する「メンシェビキ」と呼ばれた。こうして、ボリシェビキが誕生したのである。

レーニンは、ボリシェビキを革命の前衛隊として位置づけた。彼らは、労働者階級に革命意識を注入し、資本主義を打倒して社会主義社会を実現するという使命を担っていた。この理念は、1902年に出版されたレーニンの著書『何をなすべきか』で既に示されていた。

ボリシェビキは、非合法の地下活動と合法的な政治活動を巧みに組み合わせて勢力を拡大していった。1905年の第一次ロシア革命では、ペテルブルグ・ソビエトに参加し、貴重な経験を積んだ。しかし、革命は失敗に終わり、多くのメンバーが逮捕されるか亡命を余儀なくされた。

亡命中も、レーニンたちは活動を続けた。彼らは『プラウダ』紙を発行し、ロシア国内の労働者たちに革命思想を広めた。第一次世界大戦が勃発すると、レーニンは「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」というスローガンを掲げ、戦争に反対する立場を明確にした。

1917年2月、ロシアで革命が勃発した。ボリシェビキにとって、長年待ち望んだ機会が訪れたのである。

権力掌握と内戦(1917年〜1922年)

レーニンは、スイスから封印列車でロシアに帰国した。彼は「四月テーゼ」を発表し、臨時政府の打倒と全権力のソビエトへの移譲を訴えた。当初、この過激な主張は党内でも物議を醸したが、次第に支持を集めていった。

ボリシェビキは、「平和とパン」のスローガンを掲げ、労働者や兵士たちの支持を獲得していった。7月には武装蜂起を試みたが失敗し、レーニンは再び地下に潜伏せざるを得なくなった。しかし、9月になると、ペトログラード・ソビエトでボリシェビキが多数派を占めるようになった。

そして、1917年11月7日(旧暦10月25日)、ボリシェビキは武装蜂起を決行した。彼らは首都の重要施設を次々と制圧し、冬宮に立てこもる臨時政府を打倒した。レーニンは「ロシアのすべての市民へ」と題する声明を発表し、ソビエト政権の樹立を宣言した。十月革命の成功により、ボリシェビキは権力を掌握したのである。

しかし、革命政権の前には山積する課題があった。まず、第一次世界大戦からの離脱が急務だった。1918年3月、ボリシェビキ政権はドイツと屈辱的なブレスト=リトフスク条約を結び、多大な犠牲を払って講和を実現した。

次に、国内の反革命勢力との戦いが始まった。白軍と呼ばれる反ボリシェビキ勢力が各地で蜂起し、内戦が勃発した。ボリシェビキは赤軍を組織し、レフ・トロツキーの指揮のもと、全国各地で戦闘を繰り広げた。この過程で、彼らは「戦時共産主義」と呼ばれる厳しい統制経済を導入し、あらゆる資源を戦争遂行に投入した。

内戦は苛烈を極めた。ボリシェビキは「赤色テロ」を展開し、反革命分子の徹底的な弾圧を行った。一方で、彼らは巧みなプロパガンダを展開し、労働者や農民の支持を維持しようと努めた。

1920年になると、内戦の帰趨は次第にボリシェビキに有利になっていった。1922年、ボリシェビキは内戦に勝利し、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立を宣言した。彼らは、世界で初めての社会主義国家の建設に着手したのである。

一党独裁体制の確立と変容(1922年〜1991年)

内戦の勝利後、ボリシェビキは党の名称をロシア共産党(ボリシェビキ)に変更した。彼らは、社会主義国家建設という未曾有の実験に乗り出した。しかし、戦時共産主義政策の行き詰まりと農民の不満の高まりを受け、レーニンは1921年に新経済政策(NEP)を導入し、一定の市場経済を認めざるを得なくなった。

1924年、レーニンが死去すると、党内で権力闘争が勃発した。最終的に、ヨシフ・スターリンが勝利を収め、党と国家の実権を掌握した。スターリンは、「一国社会主義」の理論を掲げ、ソ連国内での社会主義建設に邁進した。

スターリン時代、ボリシェビキの理想は大きく変容した。集団化と急速な工業化が推し進められ、大規模な粛清が行われた。党内の古参ボリシェビキの多くが、「人民の敵」のレッテルを貼られて処刑された。革命の理想は、強権的な一党独裁体制に取って代わられたのである。

第二次世界大戦後、ソ連は超大国として台頭し、東欧諸国に社会主義体制を樹立した。冷戦期には、アメリカと核軍拡競争を繰り広げた。しかし、1980年代に入ると、経済の停滞と官僚主義の弊害が顕著になり、ミハイル・ゴルバチョフの登場でペレストロイカ(再建)とグラスノスチ(情報公開)が推進された。

1991年、ソ連が崩壊し、ボリシェビキの74年に及ぶ統治に終止符が打たれた。かつて革命の理想に燃えた一握りの集団から始まったボリシェビキの物語は、こうして幕を閉じたのである。