ウラジーミル・イリイチ・レーニン、本名ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフは、20世紀の世界史に決定的な影響を与えた人物の一人です。1870年4月22日、ロシア帝国のシンビルスク(現在のウリヤノフスク)に生まれたレーニンは、教育監督官の父と地主の娘である母のもとで育ちました。

若き日のレーニンは優秀な学生として知られていましたが、1887年に兄アレクサンドルが皇帝暗殺計画に関与したとして処刑されたことが、彼の人生の転換点となりました。カザン大学法学部に入学しましたが、政治活動により退学処分を受け、その後マルクス主義に傾倒していきます。

レーニンのマルクス主義への目覚めは、『資本論』との出会いに始まります。ペテルブルグでマルクス主義サークルに参加し、1895年には「労働者階級解放闘争同盟」を結成しました。しかし、その活動により1897年にシベリアへの流刑を命じられます。流刑地で妻となるナデジダ・クループスカヤと出会い、また『ロシアにおける資本主義の発展』を執筆するなど、思想的にも実践的にも重要な時期を過ごしました。

1900年から1917年にかけての欧州亡命期間は、レーニンが革命家としての地位を確立した時期です。『イスクラ』紙を創刊し、1902年には『何をなすべきか』を出版して前衛党の理論を確立しました。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会では、党の方針をめぐってボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂し、レーニンはボリシェヴィキの指導者となりました。

1905年革命では一時帰国し、ソビエトの重要性を認識すると同時に、武装蜂起の必要性を主張しました。その後再び亡命し、党組織の再建に尽力します。第一次世界大戦勃発後は、戦争を帝国主義戦争と位置づけ、これを内乱に転化させることを主張しました。1916年には『帝国主義論』を執筆し、資本主義の最高段階としての帝国主義を分析し、世界革命の可能性を理論化しました。

1917年2月革命後、レーニンはスイスから封印列車でロシアに帰国します。帰国直後に発表した「四月テーゼ」で即時の社会主義革命を主張し、ボリシェヴィキの方針を大きく転換させました。そして同年11月7日(旧暦10月25日)、レーニンの指導のもとでボリシェヴィキは武装蜂起を決行し、冬宮を占拠、臨時政府を打倒しました。全ロシア・ソビエト大会で権力を掌握したレーニンは、即時講和を呼びかける平和に関する布告、大地主の土地没収と再分配を定めた土地に関する布告、工場での労働者による管理を導入する労働者統制令を次々と発表しました。

しかし、革命政権の前には多くの困難が待ち受けていました。1918年3月にはドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、多大な領土と賠償金の代償として単独講和を実現しました。その後勃発した内戦では、反革命勢力である白軍との激しい戦いが1921年まで続きました。この間、レーニンは戦時共産主義政策を導入し、あらゆる資源を戦争遂行に動員しました。また、1919年にはコミンテルン(第三インターナショナル)を設立し、世界革命の推進を目指しました。

内戦の終結後、戦時共産主義政策への反発から1921年にクロンシュタット水兵叛乱が勃発すると、レーニンは新経済政策(NEP)への転換を決断します。NEPでは一部の資本主義的要素を導入し、農民に余剰農産物の自由販売を許可するなど、経済再建のための譲歩を行いました。1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立し、レーニンの民族政策に基づいた連邦制国家が形成されました。

しかし、この頃からレーニンの健康は急速に悪化していきます。1922年5月に最初の脳卒中を発症し、政治活動が制限されるようになりました。同年12月から翌年1月にかけて口述筆記された「遺言状」では、スターリン解任の提案や集団指導体制の提唱など、後継者問題への懸念を表明しています。1923年に書かれた最後の論文『少数でも少数だが、より良く』では、官僚主義への批判と社会主義建設の課題について述べています。

1924年1月21日、レーニンは54歳でこの世を去りました。彼の死は全国民的な哀悼を呼び起こし、遺体は防腐処理され、モスクワの赤の広場に建設されたレーニン廟に安置されました。死後、レーニンは急速に神格化され、彼の思想は「レーニン主義」として体系化されました。ペテログラードはレニングラードに改名され、ソ連全土でレーニン崇拝が制度化されていきました。

レーニンの思想と実践は、20世紀の世界に多大な影響を与えました。彼はマルクス主義を20世紀の状況に適応させ、帝国主義論や前衛党理論を発展させました。世界初の社会主義国家建設を主導し、中央集権的な一党独裁制と計画経済のモデルを確立しました。コミンテルンを通じて国際共産主義運動を推進し、また民族自決権の主張は第三世界の独立運動に大きな影響を与えました。

一方で、レーニンの思想と実践は多くの批判も受けています。一党独裁制の確立が政治的自由の抑圧につながったこと、革命と内戦における「赤色テロ」など暴力的手段の使用、戦時共産主義政策による経済崩壊、そして死後の神格化が後のスターリン崇拝につながったことなどが指摘されています。

ソ連崩壊後、レーニンの評価は大きく変化しました。かつては公式イデオロギーとして崇められたマルクス=レーニン主義も、現在では批判的に再評価されています。特に革命の暴力性と独裁制に対する批判は強く、レーニンの功罪をめぐる議論は今も続いています。

21世紀の今日、レーニンの思想と実践を批判的に検討し、その功罪を冷静に評価することが求められています。彼の生涯は、理想と現実、革命と権力、変革と保守の間の永続的な緊張関係を象徴するものとして、現代社会にも多くの示唆を与え続けています。社会正義と平等を追求する運動に影響を与える一方で、権威主義的な政治体制の正当化にも利用されてきたレーニンの遺産は、現代においても論争の的であり続けているのです。

レーニンの生涯と思想を振り返ることは、過去の歴史を理解するだけでなく、現代社会が直面する多くの問題―権力と民主主義、経済的平等と自由、国家の役割と個人の権利など―について深く考察する機会を私たちに提供してくれます。彼の功績と過ちの両方から学ぶことで、より公正で平和な社会の実現に向けた新たな視座を得ることができるかもしれません。


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