ポリコレの表面的な力

近年、「ポリティカル・コレクトネス」(以下、ポリコレ)という言葉をよく耳にする。差別や偏見のない、公平で正しい社会を目指す考え方だと一般的には理解されている。しかし、この「ポリコレ」の実態は、果たして本当に正しいものなのだろうか。

まず、ポリコレの持つ表面的な力について考えてみよう。確かに、ポリコレは強大な影響力を持っているように見える。時の大臣の発言を訂正させ、大企業の行動を中止させるほどの力がある。一見すると、社会を変革する大きな力を持っているように思える。

例えば、ある企業がLGBTQコミュニティを揶揄するような広告を出したとする。ポリコレを振りかざす人々がSNSで抗議の声を上げれば、その企業はすぐさま謝罪し、広告を取り下げるだろう。政治家が差別的な発言をすれば、即座に批判の声が上がり、謝罪会見が開かれる。

このような事例を見ると、ポリコレは確かに強い力を持っているように見える。しかし、ここで立ち止まって考えてみる必要がある。この力は本当に社会を良い方向に変えているのだろうか?そして、誰のための力なのだろうか?

表面的な力の裏に潜む実態

ポリコレが持つ力の実態を明らかにするために、具体的な例を見てみよう。例えば、性的マイノリティの権利向上を考えてみる。

ポリコレの力があれば、たとえばゲイの人々は今頃、中世の殿上人のような権勢を誇っているはずだ。しかし、現実はそうではない。確かに、以前と比べれば社会的認知は進んだかもしれない。しかし、彼らが社会で特権的な地位を得たわけではない。依然として差別や偏見は存在し、多くの課題が残されている。ポリコレの巨大なパワーはゲイにとって何のエンパワーメントにもなっていない。

なぜこのような状況が生まれるのか。その答えは、実際にポリコレ棒を振っている人々の正体にある。多くの場合、ポリコレを振りかざす人々は、その主張の対象となっている当事者ではない。彼らは、時の風潮に乗じてシャーデンフロイデ(他人の不幸を喜ぶ感情)を解消しているに過ぎないのだ。

彼らの行動パターンを歴史的に見てみよう。100年前の日本であれば、彼らは「天皇陛下万歳」と叫び、若者を戦地へ送り出すような人たちであっただろう。つまり、彼らが大事にしているのは、ポリコレそのものではなく、その時代に社会で認められた「正義」なのである。

この「正義」は、しかし、本質的な正義ではない。なぜなら、それは時代や社会の風潮によって簡単に変わってしまうものだからだ。今日の正義が、明日には不正義となることもある。そのような浮ついた正義感で社会を批判し、自らを省みることもない。

ここで重要なのは、彼らの行動が本当の意味で社会を良くしているのかどうかだ。確かに、差別的な広告は減るかもしれない。不適切な発言をする政治家も少なくなるかもしれない。しかし、それは表面的な変化に過ぎない。本当の意味での理解や共生は、そのような強制的な方法では生まれない。

真の変革への道

では、本当の意味での社会変革はどのようにして達成されるのだろうか。

まず重要なのは、当事者の声に耳を傾けることだ。ポリコレを振りかざす人々は、往々にして当事者の声を無視しがちだ。彼らは自分たちの正義感に酔いしれるあまり、本当に助けを必要としている人々の声を聞き逃してしまう。

例えば、ある企業がダイバーシティを推進するためにLGBTQの従業員を積極的に採用したとする。一見、これは良い取り組みに見える。しかし、当事者の声に耳を傾けると、別の問題が見えてくる。「私たちは単なる数字として扱われているだけで、本当の意味での理解はない」という声が聞こえてくるかもしれない。

真の変革は、このような声に真摯に耳を傾け、一つ一つ丁寧に対応していくことから始まる。それは、ポリコレを振りかざして他者を批判することよりも、はるかに難しく、時間のかかる作業だ。しかし、そうすることでしか、本当の意味での共生社会は実現しない。

また、自己批判の重要性も忘れてはならない。ポリコレを振りかざす人々に欠けているのは、まさにこの自己批判の視点だ。自分たちの行動が本当に正しいのか、誰かを傷つけていないか、常に自問自答する姿勢が必要だ。

そして、最も重要なのは、対話の姿勢だ。ポリコレは往々にして、対立を生み出しがちだ。「正しい我々」対「間違っている彼ら」という構図を作り出し、社会を分断してしまう。しかし、真の変革に必要なのは、対立ではなく理解だ。

異なる意見を持つ人々と、互いの立場を理解しようとする姿勢を持ち、建設的な議論を重ねていく。そうすることで初めて、本当の意味での共生社会が実現できるのではないだろうか。

現在のポリコレの在り方には大きな問題がある。それは、当の本人たち、すなわち本当に助けを必要としている人々が、何の利益も得ていないという点だ。ポリコレを振りかざす人々は、自らの正義感を満足させているに過ぎず、本当の意味での社会変革には貢献していない。

真の変革は、当事者の声に耳を傾け、自己批判を忘れず、対話を重視する姿勢から生まれる。そのためには、表面的な「正しさ」に惑わされることなく、本質的な問題に向き合う勇気が必要だ。それこそが、私たちが目指すべき本当の意味での「正しさ」なのではないだろうか。

最後に、もう一つ重要な点を指摘しておきたい。それは『ポリコレ』の風向きが変わった時に一番被害をこうむるのは、ポリコレで暴れ回った人たちではなく、そのお題目に利用された人たちだという事実だ。

歴史を振り返れば、社会の価値観や「正義」の基準は常に変化してきた。今日のポリコレが明日も同じ力を持っているとは限らない。むしろ、いつか必ず反動が来るだろう。その時、最も脆弱な立場に置かれるのは、ポリコレの名の下に声高に主張していた人々ではない。彼らは再び新しい「正義」に乗じて生き延びる。

真に苦しむのは、ポリコレのお題目に利用された当事者たちだ。彼らは、自分たちの本当の声が聞かれないまま、ポリコレの波に乗せられ、そして捨てられる。社会の反動が来れば、彼らは再び差別や偏見にさらされることになるかもしれない。

このことからも、現在のポリコレの在り方が本質的に間違っていることは明らかだ。真に必要なのは、一時的な風潮や表面的な「正しさ」ではなく、社会の根底にある構造的な問題に向き合い、粘り強く解決していく姿勢だ。それは、派手さはないかもしれないが、確実に社会を前進させる唯一の道なのである。

我々一人一人が、この事実を深く理解し、真の意味での公平で正しい社会の実現に向けて行動することが求められている。それこそが、ポリコレの本来の精神を生かし、全ての人々が尊重され、共生できる社会への道筋となるのではないだろうか。


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