小説を書いた経験がある人なら、誰もが苦笑しながら頷くであろう事実がある。それは、「読者はアホである」という残酷な真実だ。しかし、これは決して読者の知性を侮辱しているわけではない。むしろ、小説家と読者の間に存在する避けがたい「情報の非対称性」を指摘しているのだ。

小説家は物語の全容を把握している。登場人物の過去から未来まで、そして物語の展開や結末まで、すべてを知り尽くしている。一方、読者は物語の中に一歩一歩足を踏み入れていく探検者だ。彼らは作家が敷いたレールの上を、時に躊躇いながら、時に興奮しながら進んでいく。

この「情報の非対称性」こそが、小説家志望者たちを苦しめる最大の要因となる。なぜなら、自分が知っていることを読者も同じように理解しているはずだと、無意識のうちに思い込んでしまうからだ。

ここで問題となるのが、「におわせ文章」である。これは、作家が物語の重要な要素や展開を直接的に描写せず、暗示的に伝えようとする手法だ。しかし、この手法は諸刃の剣となりかねない。うまく使えば読者の想像力を刺激し、物語に深みを与えることができる。しかし、使い方を誤れば、読者を混乱させ、物語から遠ざけてしまう危険性がある。


執筆初心者にありがちなのは、自分が物語全体を把握しているがゆえに、重要な情報や展開を「におわせる」ことで十分だと考えてしまうことだ。彼らは、読者も自分と同じように物語を理解していると錯覚し、直接的な描写を避け、暗示的な表現に頼りがちになる。

例えば、主人公の過去のトラウマが物語の重要な要素だとしよう。経験の浅い作家は、そのトラウマを直接的に描写するのではなく、「彼は窓の外の雨を見つめ、胸の奥に昔の痛みを感じた」といった曖昧な表現で済ませてしまうかもしれない。作家にとっては、この一文で主人公の過去の苦しみが十分に伝わったように感じられるだろう。

しかし、読者にとってはどうだろうか。彼らには主人公の過去に関する具体的な情報がない。「昔の痛み」が何を意味するのか、なぜ雨がその痛みを呼び起こすのか、理解することができない。結果として、読者は物語の重要な要素を見逃し、主人公の行動や感情の動機を理解できずにいるかもしれない。

もちろん、「におわせ文章」が常に悪いわけではない。物語の序盤や中盤で使用することで、読者の興味を引き、謎を深めることができる。しかし、クライマックスや物語の重要な転換点で多用すると、読者は何が起こっているのかを理解できず、物語から疎外感を感じてしまう。

ここで重要なのは、「読者はアホである」という前提を忘れないことだ。これは決して読者を軽視しているわけではない。むしろ、読者の立場に立って、彼らが持っている情報量を常に意識することの重要性を強調しているのだ。


では、どうすれば「におわせ文章」の罠を避け、読者を置き去りにしない物語を書くことができるのだろうか。

まず、重要なのは「Show, don't tell(説明するな、描写せよ)」という古典的な作家の格言を心に留めることだ。読者に何かを伝えたいときは、抽象的な表現や曖昧な暗示に頼るのではなく、具体的な描写を心がけよう。

先ほどの例を再び取り上げてみよう。主人公のトラウマを表現するのに、次のような描写はどうだろうか。

「雨の音が窓を打つたび、彼の背中に走る痛みは10年前のあの日を思い出させた。交通事故で両親を失った日。救急車のサイレンと雨音が混ざり合う中、彼は一人取り残された。」

この描写は、読者に主人公の過去について具体的な情報を与えている。雨がなぜ彼にとって特別な意味を持つのか、そして彼が抱える「痛み」の正体が明確になる。読者は主人公の心情により深く共感できるようになり、以後の物語展開をより理解しやすくなるだろう。

次に重要なのは、情報の出し方のタイミングだ。物語の序盤では、ある程度の謎や暗示は読者の興味を引くために効果的だ。しかし、物語が進むにつれて、それらの謎や暗示は徐々に明らかにされていく必要がある。特に、クライマックスや重要な転換点では、読者が状況を明確に理解できるよう、直接的な描写や説明を躊躇してはいけない。

最後に、読者のフィードバックを大切にすることだ。自分の文章が「におわせ」すぎていないか、読者に適切に情報が伝わっているか、常に確認する必要がある。信頼できる批評者や編集者からのフィードバックは、自分の盲点を発見し、より読者に寄り添った文章を書く上で重要 だ。

優れた小説家とは、「読者はアホである」という前提を理解しつつ、それを逆手に取って読者を物語の世界に引き込む技術を持つ者だと言えるだろう。「におわせ文章」を適切に使いながらも、読者が物語を理解し、楽しむために必要な情報を適切なタイミングで提供できる。そうすることで、読者は物語の中で迷子になることなく、作家が意図した感動や驚きを存分に味わうことができるのだ。