コーニッシュパスティは、イングランド南西部のコーンウォール地方を代表する伝統的な料理です。その歴史は中世にまでさかのぼり、何世紀にもわたってコーンウォールの人々の生活に深く根ざしてきました。
パスティ(pasty)という言葉自体は古フランス語の「パステ」(pâté)に由来し、「パイ」を意味します。しかし、コーニッシュパスティの独特の形状と調理法は、コーンウォール地方で独自の進化を遂げました。
伝統的なコーニッシュパスティのレシピは、以下の要素で構成されています:
1. 外皮:バターやラードを使った短めのペイストリー生地
2. 具材:ダイスカットしたジャガイモ、タマネギ、ビーフ(通常はスカートステーキ)、ルータバガ(スウェーデンカブ)
3. 調味料:塩、コショウ
これらの材料を混ぜ合わせ、半円形の生地で包み、端を折り畳んで密閉し、オーブンで焼き上げます。
コーニッシュパスティが広く普及したのは、18世紀から19世紀にかけてのことです。この時期、コーンウォール地方では錫鉱山や銅鉱山が盛んに操業されており、多くの労働者がこれらの鉱山で働いていました。
パスティは、これらの鉱山労働者たちにとって理想的な食事でした。その理由はいくつかあります:
1. 携帯性:堅牢な生地で包まれているため、鉱山に持ち込んで食べるのに適していました。
2. 完全食:肉、野菜、炭水化物がバランスよく含まれており、一食で必要な栄養を摂取できました。
3. 保温性:厚い生地が具材の熱を長時間保持し、温かい状態で食べられました。
4. 清潔性:鉱山労働者たちは手が汚れていても、端を持って食べることができました。
伝説によると、パスティの端を折り畳んだ部分(クリンプと呼ばれる)は、労働者が持ち手として使い、食べ終わった後は捨てていたといわれています。これは、当時の鉱山に含まれていた有毒な鉱物(特にヒ素)から身を守るためだったとされています。
パスティは単なる食べ物以上の存在でした。それは家族の絆を象徴するものでもありました。鉱山労働者の妻たちは、夫の名前をパスティの生地に刻み、それぞれの好みに合わせて具材を調整しました。また、一つのパスティの中に塩味の主菜と甘い副菜を入れる「二股パスティ」も作られました。これは、一つの食事で主菜とデザートの両方を楽しめるよう工夫されたものです。
コーニッシュパスティは、コーンウォールの人々のアイデンティティと密接に結びついていました。それは単なる食べ物ではなく、彼らの歴史、文化、そして生き方を体現するものだったのです。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、コーンウォールの鉱山業は衰退していきました。これに伴い、多くのコーンウォール人が新たな機会を求めて世界中に移住しました。彼らは自分たちの文化の一部としてコーニッシュパスティを持ち込み、その結果、パスティは世界中に広がっていきました。
コーニッシュパスティが特に根付いた地域には以下があります:
1. アメリカのミシガン州アッパー半島:19世紀に多くのコーンウォール人鉱夫が移住し、現在でもパスティは地域の名物料理となっています。
2. メキシコのイダルゴ州レアル・デル・モンテ:イギリス人鉱夫によって持ち込まれたパスティは、現地で「パステ」として親しまれています。
3. オーストラリアの鉱山地帯:ゴールドラッシュ時代に移住したコーンウォール人によって広められました。
一方、本国のコーンウォールでは、鉱山業の衰退とともにパスティの文化的重要性も一時期薄れていきました。しかし、20世紀後半になると、地域の伝統食としてのパスティの価値が再認識されるようになりました。
1960年代以降、イギリス全土で地域の食文化への関心が高まる中、コーニッシュパスティも注目を集めるようになりました。地元の製パン業者や食品メーカーが、伝統的なレシピを復活させ、商業生産を始めました。
同時に、コーンウォール地方の観光産業の発展も、パスティの復興に一役買いました。多くの観光客がコーニッシュパスティを求めてコーンウォールを訪れるようになり、パスティは再び地域のアイデンティティを象徴する存在となりました。
2011年、コーニッシュパスティはEU(欧州連合)からPGI(地理的表示保護)の認定を受けました。これにより、「コーニッシュパスティ」という名称は、特定の基準を満たし、コーンウォールで生産されたものにのみ使用が許可されることになりました。PGIの基準には以下が含まれます:
1. 具材は生のまま詰め、調理済みのものを使用してはならない。
2. 具材はジャガイモ、タマネギ、ビーフ、スウェーデンカブ(またはカブ)でなければならない。
3. 端は必ず生地を折り畳んで作らなければならない。
4. 生産工程の主要な部分はコーンウォールで行わなければならない。
この認定は、コーニッシュパスティの文化的・経済的価値を公式に認めるものであり、地域の誇りとなりました。
21世紀に入り、コーニッシュパスティは伝統を守りつつ、現代の食のトレンドに適応しています。
1. 多様化するバリエーション:
伝統的なレシピを尊重しつつ、ベジタリアン向けやグルテンフリーなど、多様な食のニーズに対応したバリエーションが登場しています。ただし、これらはPGIの基準外となるため、「コーニッシュスタイル・パスティ」などの名称で販売されています。
2. 高級化の動き:
一部のシェフやパン職人は、高級食材を使用したり、現代的な調理技法を取り入れたりして、パスティを再解釈しています。例えば、ロブスターやトリュフを使用した贅沢なパスティなどが登場しています。
3. 健康志向への対応:
全粒粉を使用した生地や、低脂肪の具材を使用するなど、より健康的なパスティの開発も進んでいます。また、具材の野菜の割合を増やすなどの工夫も見られます。
4. 環境への配慮:
地産地消の動きに合わせ、地元産の有機食材を使用したパスティが人気を集めています。また、包装材料の環境負荷削減にも取り組む生産者が増えています。
5. テクノロジーの活用:
一部の生産者は、3Dフードプリンターを使用してパスティを作る実験を行っています。これにより、より複雑な形状や、カスタマイズされたデザインのパスティが可能になるかもしれません。
6. 文化遺産としての価値:
コーニッシュパスティは、単なる食べ物を超えて、コーンウォールの文化遺産として認識されるようになっています。学校では地域の歴史教育の一環としてパスティ作りを教えることもあります。
7. 国際的な認知度の向上:
イギリス料理の世界的な人気の高まりとともに、コーニッシュパスティも国際的に注目されるようになっています。世界各地のイギリス料理レストランでメニューに取り入れられることも増えています。
8. 地域経済への貢献:
コーニッシュパスティ産業は、コーンウォール地方の重要な経済基盤の一つとなっています。多くの雇用を創出し、地域の農業にも大きな影響を与えています。
今後のコーニッシュパスティの展望としては、以下のような方向性が考えられます:
- さらなる国際展開:イギリス料理の人気とともに、世界中でコーニッシュパスティの需要が高まる可能性があります。
- 持続可能性への注力:環境に配慮した生産方法や、地域の持続可能な農業との連携がさらに進むでしょう。
- デジタル技術の活用:オンライン注文やカスタマイズシステムの導入により、より個人化されたパスティ体験が提供されるかもしれません。
- 教育的価値の拡大:料理教室や歴史ワークショップなど、パスティを通じた教育プログラムがさらに発展する可能性があります。
コーニッシュパスティは、その長い歴史の中で常に時代とともに進化してきました。労働者の実用的な食事から始まり、地域のアイデンティティを象徴する存在となり、そして今や世界に認められる美食の一つとなっています。
この小さな半月形のパイには、コーンウォールの歴史、文化、そして人々の誇りが詰まっています。それは単なる食べ物ではなく、時代を超えて受け継がれてきた生きた伝統なのです。これからも、コーニッシュパスティは伝統を守りつつ新しい挑戦を続け、人々の心と胃袋を満たし続けることでしょう。
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