僕の名前は渡辺一郎。大学4年生で、就活真っ只中だ。
しかし、エントリーシートを書くたびに、胸が締め付けられる感覚に襲われる。

「はぁ...」
溜息をつきながら、僕は机の上に積まれた村上春樹の本を見つめた。

そうだ。村上春樹なら、こんな状況をどう描くだろう?

突然、部屋に軽やかなジャズが流れ始めた。
振り向くと、そこには...村上春樹その人が立っていた。

「や、やあ」
僕は驚きのあまり、椅子から転げ落ちそうになった。

「こんばんは、渡辺君」
村上春樹は穏やかな笑みを浮かべながら、僕の部屋を見回した。

「ど、どうして...ここに?」
「君が呼んだんじゃないかな。それより、就活に悩んでいるようだね」

村上春樹は僕の机に近づき、エントリーシートを手に取った。

「僕は...自分が何をしたいのか分からないんです」
僕は正直に告白した。

「そうかな?」村上春樹は首を傾げた。「君は毎日、僕の本を読んでいるじゃないか」

「え?それと就活に何の関係が...」

「物語を読むこと。それは自分自身を探す旅でもあるんだ」
村上春樹は真剣な表情で語り始めた。

「でも、そんなこと書いても採用されませんよ」
僕は少し苛立ちを感じながら言った。

「採用されることが全てかい?」
村上春樹の言葉に、僕は言葉を失った。

「渡辺君、君は何のために就職したいんだい?」

「それは...」
答えに窮する僕に、村上春樹はゆっくりと語りかけた。

「僕の小説の主人公たちを思い出してごらん。彼らは常に自分探しの旅をしている。就活だって、そういう旅の一つかもしれない」

「自分探しの旅...ですか?」

「そう。会社を選ぶことは、ある意味で自分の物語を選ぶことだ。どんな章を書きたいか、考えてみるといい」

村上春樹の言葉に、僕は少し希望を感じ始めた。

「でも、どうやって自分の物語を見つければいいんでしょう?」

「簡単さ。まずは、好きなことから始めるんだ」
村上春樹はにっこりと笑った。

「好きなこと...」
僕は思わず、机の上の本を見た。

「そうだ。君は読書が好きだね。それを生かせる仕事はたくさんあるはずだ」

「出版社とか...」
僕は少し興奮を覚えながら言った。

「そうだね。でも、それだけじゃない。広告、メディア、教育...物語は至る所にあるんだ」

村上春樹の言葉に、僕の中で何かが変わり始めた。

「就活は、自分の物語の序章を書くようなものだ。完璧である必要はない。大切なのは、自分らしさを失わないこと」

「自分らしさ...」
僕は呟いた。

「そう。君だけの『殻』を作り上げるんだ。それが君を守り、同時に君を表現する」

突然、僕は机に向かい、エントリーシートを書き始めた。
今までにない言葉が、スラスラと出てくる。

「素晴らしい」村上春樹は満足げに頷いた。「君の物語が始まったようだね」

書き終えた僕は、晴れやかな顔で村上春樹を見上げた。
「ありがとうございます。でも、これで本当に大丈夫でしょうか?」

「大丈夫さ。だって、就活なんてダメだとは言わないからね」
村上春樹はウインクしながら、消えていった。

その夜、僕は久しぶりに安らかな眠りについた。

翌朝、目覚めると、机の上のエントリーシートが目に入った。
昨夜の出来事は夢だったのかもしれない。
しかし、僕の中で何かが確実に変わっていた。

それから数ヶ月後。
僕は、ある出版社の面接室に座っていた。

「渡辺さん、あなたのエントリーシートは非常に印象的でした」
面接官は穏やかな笑顔で言った。

「ありがとうございます」
僕は自信を持って答えた。

「特に、『人生は長い旅のようなものです。就職は、その旅の新しい章を開くきっかけだと考えています』という部分が素晴らしい」

僕は思わず微笑んだ。
そう、これは僕の物語の始まりなのだ。

面接を終え、外に出ると、そこには青い空が広がっていた。
どこからかジャズの音が聞こえる。

僕は深呼吸をして、新しい章へと歩み出した。
きっと、村上春樹もどこかで見守ってくれているに違いない。

就活なんてダメじゃない。
それは、自分だけの物語を紡ぎ出す、かけがえのない旅なのだから。

(終)

職業としての小説家(新潮文庫)
村上春樹
新潮社
2022-12-05




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