現代社会において、情報の氾濫は避けられない現象となっている。その中で、「まとめサイト」という存在は、一見便利なツールのように思われるかもしれない。しかし、ここでは、まとめサイトを避け、「タイパ」(タイムパラドックス)を考慮することの重要性について論じていく。

まず、まとめサイトの問題点から考察しよう。まとめサイトは、複数の情報源から抽出された情報を一箇所に集約し、簡潔に提示するというコンセプトで運営されている。しかし、この過程で失われるものは少なくない。

第一に、コンテキストの喪失が挙げられる。情報は常に特定の文脈の中で生まれ、その文脈こそが情報の真の意味を規定する。まとめサイトは、この文脈を切り取り、断片化された情報のみを提供する傾向にある。これは、ポストモダン思想家のジャン=フランソワ・リオタールが指摘した「大きな物語の終焉」と「小さな物語の増殖」という現象に通じる。我々は、統一的な世界観を失い、断片化された情報の海の中で漂流しているのだ。

第二に、まとめサイトは「フィルターバブル」を強化する。イーライ・パリサーが提唱したこの概念は、個人が自分の興味や信念に合致する情報のみに接触し、それ以外の情報から隔離される状況を指す。まとめサイトは、ユーザーの嗜好に合わせて情報を選別し提示するため、このバブル効果を増幅させる。結果として、我々の世界観はますます狭隘化し、他者理解の可能性は閉ざされていく。

では、「タイパ」とは何か。これは「タイムパラドックス」の略称であり、時間と情報の関係性に着目した概念である。現代社会において、我々は常に「最新の情報」を追い求める傾向にある。しかし、この「最新」という概念自体が、極めて相対的かつ流動的なものだ。

ボードリヤールの言う「シミュラークル」の概念を借りれば、我々が接している情報の多くは、既に実体を失った記号の戯れに過ぎない。「最新」を追い求めることは、この記号の戯れに翻弄されることに他ならない。

タイパを考慮するとは、この時間と情報の関係性を批判的に捉え直すことを意味する。即時性や新規性に価値を置くのではなく、情報の持つ深度や持続性、そして他の情報との関連性を重視する姿勢が求められる。

さらに、デリダの「差延」の概念を援用すれば、意味の確定を常に先送りにし続けることの重要性が浮かび上がる。まとめサイトは、ある種の「意味の確定」を提供するが、それは常に仮初めのものに過ぎない。我々は、意味の確定を拒み続け、常に新たな解釈の可能性に開かれていなければならない。

ここで、フーコーの権力論を参照してみよう。まとめサイトは、特定の言説を生産・再生産する装置として機能している。これは、知と権力が密接に結びついているというフーコーの指摘と合致する。まとめサイトを避けることは、この知-権力の連関に抵抗し、オルタナティブな言説の可能性を模索することにつながる。

一方で、完全にまとめサイトを否定することもまた、一種の還元主義に陥る危険性がある。むしろ、まとめサイトの存在自体を批判的に考察の対象とすることで、現代社会における情報の流通と消費のメカニズムを明らかにすることができるだろう。

まとめサイトを避け、タイパを考慮することは、単なる情報収集の方法論を超えた、現代社会における存在のあり方そのものに関わる問題である。我々は、断片化された情報の海を漂流しながらも、常に全体性への志向を失わず、同時に意味の確定を拒み続ける姿勢を保つ必要がある。

これは、ジル・ドゥルーズの「リゾーム」的思考にも通じる。中心や階層構造を持たない、多様な接続可能性に開かれた思考のあり方。まとめサイトという一元的な情報源に依存するのではなく、多様な情報源を自在に横断し、そこから独自の意味を紡ぎ出していく。それこそが、ポストモダン社会を生きる我々に求められる姿勢なのではないだろうか。

タイパを考慮するとは自らの思考と存在のあり方を絶えず問い直し続けることに他ならない。それは容易な道のりではないが、情報化社会を真に生き抜くための不可欠な態度なのである。