なあ、お前ら。最近「チー牛」言うてバカにされとるわけやが、ワイ思うんや。チー牛って、案外村上春樹の小説の主人公みたいちゃうか?って。ただし、謎にモテるみたいな部分は全然ないけどな。

まず、チー牛の定義から確認しとこか。チー牛っちゅうんは、「眼鏡かけて、髪型はマッシュルームカットで、アニメとかゲームが好きな、コミュ障の男」みたいな感じやろ。大体こんな認識でええか?

ほんで、村上春樹の小説の主人公はどうや。こいつらも、なんというか「普通」なんよな。別に超イケメンでもなければ、スポーツ万能でもない。どっちかっつーと、本読んだり音楽聴いたりする、ちょっと孤独な感じの男が多いんや。

ここで、チー牛と村上春樹の主人公の共通点をいくつか挙げてみるで。

1. コミュ障気味
チー牛はコミュ障の代名詞みたいなもんやろ。村上春樹の主人公も、別に社交的じゃないんや。「ノルウェイの森」のワタナベトオルとか、周りと距離置いとるやん。

2. 趣味がマイナー寄り
チー牛はアニメやゲームが好きってイメージやけど、村上春樹の主人公も jazz とか洋楽とか、ちょっとマイナーな趣味持っとるんよな。

3. ファッションセンスの欠如
チー牛はファッションに興味ないってイメージやろ。村上春樹の主人公も、別におしゃれに気遣ってる描写あんまりないよな。

4. 内面の葛藤
チー牛は外見で判断されがちやけど、実は内面では色々考えとるんやないか?村上春樹の主人公も、常に内面の葛藤抱えとるやん。

5. 周りと馴染めない感じ
チー牛は「リア充」に馴染めへんやろ。村上春樹の主人公も、なんか世間とズレとる感じあるよな。

ほんで、ここからが本題や。

チー牛と村上春樹の主人公、ここまで似とるのに、なんで片方はモテへんのに、もう片方は謎にモテるんや?

その理由、ワイなりに考えてみたで。

まず第一に、「物語」の有無や。

村上春樹の小説には「物語」があるんや。主人公が何かを追求したり、過去と向き合ったり、不思議な出来事に巻き込まれたり。そういう「物語」があるから、読者はグイグイ引き込まれるんや。

一方、チー牛には「物語」がない。少なくとも、外からは見えへん。毎日同じような生活を送っとるだけに見えるんや。

これ、めっちゃ大事やで。人間、「物語」に弱いんや。自分の人生に「物語」がない奴は、どうしても魅力的に見えへんのや。

第二に、「謎」の有無や。

村上春樹の主人公って、どこか「謎」めいとるやろ。何考えとるんか分からへん。けど、それがまた魅力的に見えるんや。

チー牛は「謎」がない。何考えとるか、大体想像つくやろ。「次のアニメ見たいなー」とか「新作ゲーム楽しみやなー」とか。

これも重要や。人間、ある程度「謎」のある相手に惹かれるもんなんや。全部丸見えの相手より、ちょっと謎めいた相手の方が気になるやろ。

第三に、「余白」の有無や。

村上春樹の小説って、読者の想像力に「余白」を残すんや。全部説明せんと、読者に考えさせる。それが魅力になっとるんや。

チー牛は「余白」がない。見た目で全部判断されてまう。中身を想像する「余白」がないんや。

これ、めっちゃもったいないことやで。人間、想像力かき立てられると、勝手に良いように解釈しがちやからな。

ほんで最後に、「自己演出」の有無や。

村上春樹の主人公は、作者によって上手く演出されとる。格好良く見えるとこは強調して、ダサいとこは隠す。そういう演出があるんや。

チー牛は「自己演出」下手くそや。良いとこあっても隠しとるし、ダサいとこ丸出しや。

これ、マジで重要。人間、他人から見られとる自分のイメージ作るの下手くそな奴多いんや。でも、それができると、ガラッと印象変わるで。

まとめると、チー牛が村上春樹の主人公みたいにモテるようになるには:

1. 自分の人生に「物語」を作る
2. ちょっとした「謎」を残す
3. 人に想像させる「余白」を作る
4. 上手く「自己演出」する

これらができたら、ガチでモテ始めるで。

ただし、これ簡単やないで。むしろクッソ難しい。でも、不可能ちゃうんや。

ワイからチー牛のみんなに言いたいのは、お前らにも「物語」はあるはずや。ただそれを誰にも見せてへんだけや。自分の内面をちょっとずつ外に出してみい。「謎」のある奴になってみい。人に想像させる「余白」作ってみい。自分のええとこ、もっと出していけや。

そしたら、お前らだって村上春樹の主人公みたいになれるかもしれへん。

まあ、モテるかどうかは分からんけどな。少なくとも今よりはマシになるで、間違いなく。

ほな、また明日な。