まずは「哲学的ゾンビ」について簡単に説明するで。

哲学的ゾンビっちゅうんは、外見や行動は普通の人間と全く同じやけど、意識や主観的経験がない存在のことや。要するに、ロボットみたいなもんや。痛みを感じてるフリはできるけど、本当の痛みは感じひんのや。

せやけど、なんでワイらは「弱者」を哲学的ゾンビに例えとるんや?ここからが本題や。

まず、「弱者」っちゅうのは誰のことや?社会的に恵まれてない人間のことやろ。貧乏人、ホームレス、障害者、マイノリティ...こういう連中のことや。

で、なんでこいつらが哲学的ゾンビに見えるんかっちゅうと、要は「意識があるように見えへん」からや。

例えば、電車で目の前にホームレスがおったとする。臭いし、汚いし、できれば目を背けたくなる。そんな時、ワイらは無意識のうちに「こいつに意識はあるんか?」って考えてまうんや。

なんでかっちゅうと、ワイらの常識から見たら、あんな生活送る奴に意識があるとは思えへんのや。「意識あるなら、もっとマシな生活しようと思うやろ」って。

同じことが他の弱者にも言えるんや。

貧乏人?「金稼ぐ気あんのか?」
障害者?「普通に生きる気あんのか?」
マイノリティ?「主流に合わせる気あんのか?」

こういう風に、ワイらは弱者の「意識」を疑ってまうんや。

せやけど、これって結構やばい考え方やで。

だって、弱者にも当然意識はあるんや。ただ、ワイらには理解できひん事情があるだけや。

例えば、ホームレスになる理由なんて千差万別や。病気かもしれへんし、借金かもしれへん。単に不運やったのかもしれん。

障害者だって、毎日必死に生きとるんや。ただ、ワイらには見えへん苦労があるだけや。

要するに、弱者を哲学的ゾンビ扱いするのは、ワイら自身の想像力の欠如を表してるんやで。

ここで、ちょっと哲学的に考えてみるで。

哲学者のデイヴィッド・チャーマーズは「意識のハードプロブレム」っちゅう概念を提唱した。これは、脳の活動がどうやって主観的な意識経験を生み出すのかっちゅう問題や。

つまり、人間の意識っちゅうのは、実は全然わかってへんのや。

せやのに、ワイらは勝手に「弱者に意識はない」って決めつけてまう。これって、めっちゃ傲慢やろ?

さらに言うと、ワイらが「意識がある」って思ってる人間だって、本当は哲学的ゾンビかもしれへんのや。

例えば、政治家や企業の偉い人。こいつら、人間らしい感情あんのかって思うときあるやろ?

でも、こいつらのことは「意識がある」って思ってまう。なんでか?それは単に、社会的に成功してるからや。

つまり、ワイらは「社会的成功=意識がある」「社会的失敗=意識がない」みたいな、めっちゃ単純な図式で物事見てまってんのや。

これって、めっちゃ皮肉なことやで。

だって、本当に「意識がない」んは、こういう単純な図式で物事見てる奴らの方かもしれへんのや。

ワイらは、弱者を哲学的ゾンビ扱いすることで、自分らの心の貧しさを露呈してるんやで。

せやけど、ここで終わったらアカンで。

この「弱者=哲学的ゾンビ」っちゅう考え方は、社会にとってめっちゃ危険なんや。

なんでか言うたら、相手を「意識のない存在」と見なすことで、どうでもええ扱いしても構へんって思ってまうからや。

歴史を見てみい。人種差別、性差別、障害者差別...これらの根底には、常に「こいつらは完全な人間やない」っちゅう考えがあったんや。

つまり、弱者を哲学的ゾンビ扱いするのは、差別や抑圧の第一歩なんや。

せやから、ワイらはこの考え方から抜け出さなアカン。

でも、どないすりゃええんや?

答えは簡単や。想像力を働かせることや。

弱者の立場に立って考えてみる。相手の人生、背景、苦労を想像してみる。

そうすれば、相手にも確かに意識があって、ワイらと同じように喜怒哀楽を感じる人間やってことがわかるはずや。

結局のところ、「弱者って哲学的ゾンビに見えるよな」っちゅうのは、ワイら自身の意識の問題なんや。

ワイらの意識を拡げることで、初めて他人の意識が見えてくる。

そうやって、一人一人の意識を認め合える社会を作っていくんや。

そうせなアカンで。でないと、本当にワイら自身が哲学的ゾンビになってまうで。