まずな、「筋肉哲学」っちゅうんは、ワイらが普段使うような言葉やないわな。でも、考えてみいや。筋肉と哲学、この一見正反対のもんが出会ったらどうなるんや?そう、人生が変わってまうんや。

筋肉哲学の第一原理は「お前の身体こそが、お前の思考や」っちゅうことやな。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」言うたけど、筋肉哲学では「我持ち上げる、ゆえに我あり」なんや。お前の存在証明は、ベンチプレスで150kg持ち上げられるかどうかで決まるんやで。

でもな、ここで勘違いせんといてや。筋肉哲学は単に筋トレせえっちゅうもんやないんや。それやったら、ただのボディビルやんけ。筋肉哲学は、筋肉を通して人生の真理を探求するもんなんや。

例えば、スクワットを考えてみいや。しゃがんで、また立ち上がる。これ、人生そのものやないか?お前らも、人生で何回しゃがみこんだことか。でも、大事なんは立ち上がることやろ。筋肉哲学は教えてくれるんや。「お前が立ち上がる力は、お前の中にあるんやで」ってな。

プロテインを飲むときも哲学的に考えるんや。プロテインは筋肉の栄養素や。じゃあ、お前らの精神の栄養素は何や?知識か?経験か?それとも愛か?筋肉に栄養与えるように、精神にも栄養与えんとアカンのやで。

ダンベルカールのとき、お前ら「鏡見てウホウホ」してへんか?それ、ナルキッソスの神話と一緒やで。自己愛に溺れてまうと、周りが見えんようになる。筋肉哲学は「鏡見るんはええけど、たまには周り見ぃや」って教えてくれるんや。

でもな、ここで一番大事なことを言うで。筋肉哲学の真髄は「努力」にあるんや。筋トレって、毎日コツコツやらなアカンやろ?これ、哲学の勉強と一緒なんや。プラトンもアリストテレスも、一夜にして大哲学者になったわけやあらへん。毎日コツコツ考え続けたんや。

筋肉哲学は「痛み」の意味も教えてくれるで。筋トレ後の筋肉痛、あれ気持ちええやろ?成長の証やからな。人生の痛みも一緒や。辛いこと、悲しいこと、あれ全部お前らを強くするんや。ニーチェも「我を殺さざるものは我を強くす」言うとったやないか。

ほんで、「限界」っちゅうもんについても考えさせられるんや。筋トレしとったら、「もうアカン」ちゅう限界が来るやろ。でも、それを超えたときに成長があるんや。お前らの人生の限界も、実は自分で決めとるだけかもしれんで。

筋肉哲学は「バランス」の大切さも教えてくれるんや。上半身ばっかり鍛えて下半身スカスカやったらアカンやろ。人生も一緒や。仕事だけ、趣味だけに偏ってたらアカンのや。全体的なバランスが大事なんや。

でもな、ここで皮肉なこと言うたるで。筋肉哲学に没頭しすぎると、かえって人生狂うかもしれんで。筋肉に囚われすぎて、他のもん見えんようになるかもしれん。哲学に溺れすぎて、現実が見えんようになるかもしれん。

筋肉哲学が教えてくれるんは「自分と向き合うこと」なんやろな。鏡見て筋肉チェックするみたいに、自分の内面と向き合うんや。自分の弱さも強さも、全部受け入れるんや。

ほんで、最後に言うとくで。筋肉哲学が人生変えてくれるかもしれんけど、それはあくまで「かもしれん」やで。お前らの人生変えられるんは、お前ら自身やからな。

筋肉哲学は、ただのきっかけにすぎんのや。大事なんは、そのきっかけを掴んで、どう行動するかや。筋トレだけやなくて、頭も使え。哲学だけやなくて、体も動かせ。

そうやって、筋肉と哲学のバランス取りながら生きていくんや。そしたら、もしかしたら、ほんまに人生変わるかもしれんで。

...まあ、変わらんかったら変わらんかったで、それはそれで一つの答えやろ。人生に正解なんてもんは、そもそもあらへんのやから。

ほんじゃ、ワイからは以上や。お前ら、筋肉哲学の道を歩むも歩まんも自由や。ただ、歩むんやったら、最後まで歩み切る覚悟だけは持っとけよ。
せやで、筋肉哲学者の卵たちよ。道は険しいで。でも、その先には、もしかしたら新しい自分が待っとるかもしれんで。