青木は机に向かい、白紙のモニターを見つめていた。彼は小説家だった。ありがちな小説家だった。
「ありがちな小説を書こう」と青木は思った。ありがちな小説家にありがちな発想だった。
彼は打ち始めた。
「私は小説家だ。ありがちな小説家だ」
青木は一瞬躊躇した。これはあまりにもありがちではないだろうか。ありがちすぎてありふれているのではないか。しかし、それこそがありがちなのかもしれない。
彼は続けた。
「私はありがちな小説家として、ありがちな小説を書こうとしている」
青木は顔をしかめた。これは何重にもありがちだ。ありがちな小説家が、ありがちな小説家を書いている。そして、そのありがちな小説家が、ありがちな小説を書こうとしている。
彼はため息をついた。これはあまりにもありがちだ。ありがちすぎて、逆に斬新なのではないか。
青木は首を振った。ありがちな小説家が、自分の作品があまりにもありがちだと悩むのは、まさにありがちだ。
彼は再び打ち始めた。
「私はありがちな小説家として、ありがちな小説を書こうとしているが、それがあまりにもありがちで悩んでいる」
青木は笑った。これは完璧だ。ありがちな小説家が、ありがちな小説を書こうとして、ありがちな悩みを抱えている。まさに三重のありがちさだ。
しかし、彼はふと気づいた。これを書いている自分もまた、ありがちな小説家なのではないか。ありがちな小説家を書くありがちな小説家。そして、そのありがちな小説家が書くありがちな小説家も、またありがちな小説家なのだ。
青木は目を閉じた。これは無限のループだ。ありがちな小説家が、ありがちな小説家を書き、その小説家がまたありがちな小説家を書く。それはまるで鏡の中の鏡のように、永遠に続いていく。
彼は深呼吸をした。これは自己言及的で、メタフィクショナルで、そして何よりもありがちだ。
青木は再び打ち始めた。
「私はありがちな小説家として、ありがちな小説家を書いている。そのありがちな小説家も、ありがちな小説家を書いている。そして、それを書いている私もまた、ありがちな小説家なのだ」
彼は満足げに微笑んだ。これこそが究極のありがちさだ。ありがちさのフラクタル構造。ありがちさの無限反復。
しかし、青木はふと不安になった。これはあまりにもありがちすぎるのではないか。ありがちすぎて、逆に斬新になっているのではないか。そして、それを心配することもまた、ありがちなのではないか。
彼は頭を抱えた。これは哲学的な問いだ。ありがちさとは何か。ありふれているとは何か。そして、斬新とは何か。
青木は深く考え込んだ。ありがちであることを意識的に追求することは、果たしてありがちなのか。それとも、それこそが最もありがちでない行為なのか。
彼は再び打ち始めた。
「私はありがちな小説家として、ありがちさとは何かを考えている。そして、それを考えている私もまた、ありがちな小説家なのだ」
青木は満足げに頷いた。これこそが純文学だ。存在論的な問いを含み、自己言及的で、そして何よりもありがちだ。
しかし、彼はふと気づいた。これを読む読者もまた、ありがちな読者なのではないか。ありがちな小説家が書いた、ありがちな小説家についての小説を読む、ありがちな読者。
青木は目を見開いた。これは読者をも巻き込んだメタフィクションだ。作者と作品と読者が、ありがちさという概念によって結びつけられている。
彼は熱に浮かされたように打ち続けた。
「私はありがちな小説家として、ありがちな読者に向けて、ありがちな小説を書いている。そして、その小説の中のありがちな小説家も、ありがちな読者に向けて、ありがちな小説を書いている」
青木は震えた。これは究極の純文学だ。自己言及性、メタフィクション、存在論的問い、そして読者の巻き込み。全てが揃っている。
しかし、彼はふと不安になった。これはあまりにも完璧すぎるのではないか。完璧すぎて、逆にありがちなのではないか。
青木は深く息を吐いた。これこそが芸術だ。ありがちさを追求するあまり、究極の斬新さに到達する。そして、その斬新さもまた、ありがちなのだ。
彼は最後の一文を打った。
「そして、これを書いている私もまた、ありがちな小説家なのだ」
青木は椅子から立ち上がった。彼は今、最高傑作を書き上げたのだ。ありがちな最高傑作を。
そして、これを読んでいるあなたもまた、ありがちな読者なのかもしれない。あるいは、ありがちな批評家かもしれない。あるいは、ありがちな小説家かもしれない。
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