真夏の夕暮れ時、アパートの一室に漂う生活感。古びた壁に貼られた暦が、風に揺れている。台所に立つ俺は、包丁を握りしめ、まな板の上のニラと向き合っていた。
「ニラ玉か...」
つぶやきが、狭い部屋に吸い込まれていく。
俺がニラ玉を作ろうと思い立ったのは、母さんの思い出のためだ。母さんは三ヶ月前に他界した。最期まで俺のことを気にかけてくれていた。
「お前、ちゃんとしたもん食べてるんか?」
母さんの声が、耳の奥で響く。
俺は包丁を持つ手に力を込めた。ニラの香りが鼻をくすぐる。母さんの台所を思い出す。小さい頃、よくニラ玉を作ってくれたっけ。
ニラを刻む音が部屋に響く。コツン、コツンという音に合わせて、記憶が蘇る。
母さんの笑顔。
「おいしいやろ?ニラは体にええんやで」
懐かしさと悲しみが胸に押し寄せる。俺は包丁を置き、深呼吸をした。
ボウルに卵を割り入れる。黄身と白身が混ざり合う様を見つめながら、母さんとの最後の会話を思い出す。
「悲しまんでええよ。お母さん、幸せやったから」
病床で、母さんはそう言った。でも、俺は悲しかった。まだまだ母さんと一緒にいたかった。もっと色んな話をしたかった。
卵を泡立てる。泡立て器を持つ手が震える。涙が目の端にたまる。
「くそっ...」
俺は袖で涙をぬぐった。母さんが見たら笑うだろう。こんな簡単な料理で泣くなんて。
フライパンに油をひく。ジュワッという音が立つ。その音に、現実に引き戻される。
ニラを炒める。シャキシャキとした音。緑の香りが立ち込める。
母さんの声が聞こえる気がした。
「そうそう、その調子や」
俺は頷く。母さんに教わった通りにやっている。
卵を流し入れる。ジュワッという音が大きくなる。黄色い卵が緑のニラを包み込んでいく。
ヘラで軽くかき混ぜる。半熟の状態で火を止める。母さんはいつもこうしていた。
「できたな」
俺は呟いた。フライパンから皿に移す。湯気が立ち上る。
ニラ玉の香りが部屋中に広がる。俺は深く息を吸い込んだ。
母さんの味とは違う。でも、確かに母さんの記憶がここにある。
俺は箸を手に取り、一口食べた。
「...うまい」
声が震える。涙が頬を伝う。
俺は食べ続けた。一口、また一口。
ニラの香り、卵のやわらかさ。それらが絡み合って、母さんの思い出を呼び覚ます。
窓の外では、夕日が沈もうとしていた。オレンジ色の光が部屋に差し込む。
俺は立ち上がり、窓際に歩み寄った。街並みが夕焼けに染まっている。
「母さん、見てるか?」
風が吹き、カーテンがゆらめく。
「俺、ちゃんとニラ玉作ったで」
返事はない。でも、どこかで母さんが笑っている気がした。
皿を持って、再び椅子に座る。
ニラ玉を一口また一口。
母さんとの思い出が、一口ごとによみがえる。
幼い頃の運動会。
中学の卒業式。
高校受験の結果を聞いた日。
そして、最後の病室での会話。
全てが、このニラ玉の中にある。
俺は食べ続けた。最後の一口まで。
皿が空になった時、俺は深くため息をついた。
「ごちそうさま」
誰に向かって言ったのかは、わからない。
立ち上がり、皿を流しに運ぶ。水を流しながら、俺は決意した。
明日も、明後日も、ニラ玉を作ろう。
そうすれば、母さんの思い出は、いつまでも鮮やかなままでいられる。
台所の窓から、最後の夕日が消えていく。
新しい夜の始まり。
俺は、もう一度深呼吸をした。
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