2045年、東京。

灰色の空が低く垂れ込め、ネオンの光が濁った雨粒に反射して街を彩っていた。かつての賑わいを失った渋谷のスクランブル交差点に、一人の男が佇んでいた。

田中誠、35歳。彼は10年前に「恋愛市場」から完全に撤退した男だった。

「よう、誠。また一人で佇んでんのか」

声をかけてきたのは、幼なじみの佐藤だった。彼もまた、恋愛市場からの撤退組の一人だ。

「ああ、なあ佐藤。お前は今でも、あの頃の選択が正しかったと思うか?」

佐藤は苦笑いを浮かべながら答えた。「正しいも何も、選択肢なんてなかったじゃねーか。俺たちみたいな残念な奴らには」

2035年、日本政府は少子化対策の一環として「恋愛促進法」を施行した。その名も「Love or Leave」。これにより、30歳までに結婚できない者は強制的に「恋愛市場」から撤退させられ、特別な管理下に置かれることになったのだ。

撤退者たちは、政府が用意した「シングルタウン」と呼ばれる特別居住区で生活することを強いられた。そこでは、恋愛や結婚に関する一切の活動が禁止されていた。

誠と佐藤は、その最初の「撤退組」だった。

「でもよ、誠。正直言って、あんときは地獄かと思ったけどよ」佐藤が続けた。「今じゃ、あのとき撤退して良かったって思うときもあるぜ」

誠は無言で頷いた。確かに、撤退後の生活は予想以上に快適だった。仕事に打ち込める環境、趣味に没頭できる時間、そして何より、恋愛という名のストレスから解放されたのだ。

しかし、その代償として彼らは人間としての「可能性」を奪われたのかもしれない。

二人が話している間にも、スクランブル交差点を行き交う人々の姿が目に入る。カップルたちは、まるで勲章のように「LOVER」と書かれたバッジを胸に付けている。一方、誠たち撤退組は「SINGLE」のバッジを付けることを義務付けられていた。

「ほら見ろよ、あのカップル」佐藤が指さす先には、喧嘩をしている若いカップルの姿があった。「あんなのに巻き込まれなくて良かったと思わねーか?」

誠は複雑な表情を浮かべた。「そうかもな。でも、あの痛みを知らずに生きていくのも、なんだか寂しい気がするよ」

その時、誠のウェアラブルデバイスが鳴り響いた。政府からの緊急通達だ。

「本日より、『Love or Leave』政策の一部改正を実施します。これにより、既存の撤退者にも、条件付きで恋愛市場への再参入の機会が与えられます」

誠と佐藤は顔を見合わせた。予想外の展開に、二人とも言葉を失っていた。

「なんだよ、これ」佐藤が絞り出すように言った。「俺たちにもう一度チャンスをくれるってか?」

誠は沈黙したまま、遠くを見つめていた。彼の心の中で、様々な感情が渦巻いていた。喜び?恐怖?それとも...虚しさ?

「どうする?」佐藤が尋ねた。「もう一度、あの地獄に飛び込むか?」

誠は深くため息をついた。「正直、わからない。でも、これが最後のチャンスかもしれない」

その夜、誠は自分のアパートに戻った。シングルタウンの小さな一室だ。壁には趣味の映画ポスターが所狭しと貼られ、本棚には読みかけの本が乱雑に並んでいた。

彼は窓際に立ち、夜景を眺めながら考え込んだ。

恋愛市場に戻るということは、再び自分を晒すということだ。拒絶、そして孤独。全てを再び味わうことになる。

しかし同時に、それは人間らしさを取り戻すチャンスでもあった。

誠は、引き出しから古いスマートフォンを取り出した。電源を入れると、10年前に撮った写真が次々と表示される。友人たちとの楽しそうな写真、好きだった女性との2ショット、そして...失恋した夜に一人で撮った自撮り。

その時、誠の脳裏に一つの考えが閃いた。

「そうか...俺たちは、"撤退"なんてしてなかったんだ」

誠は佐藤に連絡を取った。「おい、佐藤。考えがあるんだ。聞いてくれ」

翌日、誠と佐藤は政府のオフィスに向かった。そこには、彼らと同じ撤退組の仲間たちが大勢集まっていた。

「我々は、恋愛市場への再参入を...拒否します」

誠の宣言に、会場がざわめいた。

「しかし」彼は続けた。「我々は新たな提案をします。"恋愛"という概念を超えた、新しい人間関係の形を模索する。それを、"ポスト恋愛"と呼びましょう」

佐藤が補足した。「俺たちは、恋愛や結婚という既存の枠組みにとらわれない関係性を築いていきたい。それは、恋人でも、友人でも、家族でもない。でも、確かな絆で結ばれた関係だ」

政府の役人たちは困惑の表情を浮かべていた。これは想定外の展開だった。

「具体的には?」ある役人が尋ねた。

誠は答えた。「例えば、共同生活や共同子育て。血縁や恋愛関係に縛られない新しいコミュニティの形成。そして、それらを法的にも認める新しい制度の創設です」

会場は騒然となった。撤退組の中からも、賛同の声が上がり始めた。

数ヶ月後、「ポスト恋愛特区」が設立された。そこでは、従来の恋愛や結婚の概念にとらわれない新しい人間関係が育まれていった。

誠と佐藤は、その特区の中心人物となっていた。彼らは、かつて「恋愛市場から撤退した負け組」と呼ばれていた。しかし今や、新しい社会の先駆者として注目を集めていたのだ。

ある日、誠は特区の屋上から街を見下ろしていた。そこには、様々な形の「家族」が暮らしていた。血のつながりのない人々が共同で子育てをする姿、複数の大人が支え合って生活する光景、年齢や性別を超えて絆を深める人々の姿。

「なあ、誠」背後から佐藤の声がした。「俺たち、結局のところ恋愛市場から"撤退"なんてしてなかったんだな。ただ、新しい市場を作っただけだ」

誠は笑みを浮かべた。「そうだな。でも、この市場には"負け組"はいない。みんながWinnerなんだ」

夕暮れ時の空が、美しく染まっていく。かつての「シングルタウン」は、今や希望に満ちた街へと生まれ変わっていた。

誠は深く息を吸い込んだ。

「さあ、新しい恋の形を、もっともっと追求していこうぜ」

彼の言葉に、佐藤も頷いた。二人の背中には、もう「SINGLE」のバッジはなかった。代わりに、「PIONEER」という文字が輝いていた。

新しい時代の幕開けー。それは、誰もが予想だにしなかった形で訪れたのだった。

303山桜2

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