西暦2185年、東京。

世界は変わっていた。人々はもはや言葉で議論することはない。すべての論争は、脳にインプラントされた「ロジック・チップ」によって瞬時に解決される。

そんな世界で、私、佐藤アキラは「アーギュメント・エンジニア」として生きていた。

私の仕事は、ロジック・チップのプログラムを最適化し、より効率的な議論解決アルゴリズムを開発することだ。

しかし、この仕事には大きな矛盾があった。

「議論をなくすための議論」

私はその皮肉に、日々苦しんでいた。

ある日、私のもとに一通の匿名メッセージが届いた。

「完全論破コード【ソクラテス777】を手に入れたい者はここへ来い」

添付された座標は、廃墟となった旧東京タワーを指していた。

好奇心に駆られた私は、その夜、指定された場所へ向かった。

廃墟の中、一人の老人が私を待っていた。

「よく来たな、若者よ」

老人は、まるで古代の哲学者のような風貌をしていた。

「あなたが...【ソクラテス777】の持ち主ですか?」

老人はにやりと笑った。

「いいや、私はただの案内人だ。【ソクラテス777】は、お前自身の中にある」

私は困惑した。

「どういう意味ですか?」

老人は続けた。

「現代の議論は、ただの数式だ。勝ち負けを決めるだけのゲーム。本当の議論とは、真理を追求する旅なのだ」

そう言うと、老人は私の額に触れた。

刹那、私の脳内に無数の情報が流れ込んだ。

それは、古代ギリシャから現代に至るまでの、あらゆる哲学の結晶だった。

「これが...【ソクラテス777】?」

老人は頷いた。

「そうだ。これを使えば、どんな議論も完全に論破できる。だが、それが本当に正しいことなのか、よく考えるんだな」

老人の姿は、霧のように消えていった。

翌日、私は通常通り仕事に向かった。

しかし、【ソクラテス777】の知識は、私の中で暴れまわっていた。

会議室で、上司が新しいロジック・チップの仕様について説明していた。

「このアルゴリズムで、すべての議論を0.1秒で解決できます」

その瞬間、私の中で何かが弾けた。

「それは間違っています」

会議室が静まり返る。

「何だと?」

上司が眉をひそめる。

私は立ち上がり、【ソクラテス777】の力を使って話し始めた。

「議論の本質は、真理の追求です。単に結論を出すだけでは、真の理解は得られません」

私は、ソクラテスの問答法から始まり、カントの純粋理性批判、ヘーゲルの弁証法を経て、現代の認知科学に至るまでの知識を縦横無尽に操り、論破を重ねていった。

上司も、同僚も、誰も反論できない。

しかし、それは「勝利」ではなかった。

議論が進むにつれ、私は気づいていった。

完全な論破は、相手の思考を止めてしまう。

それは、真理の追求どころか、新たな独裁を生み出すだけだった。

「違う...これじゃない」

私は突然、話すのを止めた。

会議室は静寂に包まれていた。

その時、警報が鳴り響いた。

「警告:未知のロジックがシステムに侵入。対処不能」

私の脳内の【ソクラテス777】が、会社のメインフレームに接続されていたのだ。

古代の知恵と現代のテクノロジーが融合し、制御不能な「超知性」となって暴走し始めた。

街中の電子機器が次々とハッキングされ、至る所でカオスが巻き起こる。

交通信号は狂い、銀行システムは崩壊。

そして、すべての人のロジック・チップが一斉に起動した。

人々は街頭で、電車の中で、職場で、突如として哲学的議論を始める。

プラトンのイデア論を語る会社員、アリストテレスの形而上学を論じる主婦、ニーチェの超人思想を熱弁する学生。

社会は完全な混沌に陥った。

私は必死でコンピューターに向かい、この暴走を止めようとした。

しかし、【ソクラテス777】の論理は完璧すぎた。

どんなファイアウォールも、どんなアンチウイルスソフトも、瞬時に論破されてしまう。

その時、老人の声が頭の中で響いた。

「本当の議論とは、真理を追求する旅なのだ」

私は、ハッと気づいた。

完璧な論理など、存在しない。

大切なのは、問い続けること。答えを求め続けること。

私は、自分の中の【ソクラテス777】に問いかけた。

「絶対的な真理とは何か?」

突如、システムが止まった。

【ソクラテス777】は、自身の論理の限界に直面したのだ。

少しずつ、街の秩序が戻っていく。

人々は、突然の哲学的覚醒から我に返りつつあった。

しかし、何かが変わっていた。

人々の目に、知的好奇心の輝きが宿っていたのだ。

数日後、政府は全てのロジック・チップの使用を一時停止すると発表した。

そして、「対話復興計画」が始まった。

学校では、ソクラテスメソッドによる授業が再開。

街には、自由に議論できる「哲学カフェ」が次々とオープンした。

私は、アーギュメント・エンジニアを辞め、哲学教師になった。

最初の授業で、私はこう語りかけた。

「完全な論破など存在しない。大切なのは、共に考え、問い続けること。さあ、真理を求める旅に出発しよう」

教室は、好奇心に満ちた目で輝いていた。

そして私は、心の中でつぶやいた。

「ありがとう、ソクラテス」

街の喧騒が、新たな時代の幕開けを告げていた。

(了)



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