京都の閑静な住宅街にある一軒家。その二階の一室で、自称紫式部こと藤原紫子は、スマートフォンを握りしめていた。画面には、人気のマッチングアプリ「平安ラブ」が表示されている。
「はぁ...こんなことして、本当にいいのかしら」
紫子は溜息をつきながら、自問自答を繰り返していた。
32歳、独身。現代文学の研究者として大学で教鞭を執る傍ら、小説家としても活動している。才色兼備と言われながらも、恋愛となると不器用この上ない。
そんな彼女が、マッチングアプリに手を出したのには理由があった。
「次の小説のテーマは、現代の恋愛...か」
締め切りまであと1ヶ月。しかし、恋愛経験の乏しい紫子には、リアルな恋愛描写が書けない。そこで思いついたのが、マッチングアプリの利用だった。
だが、紫子にはある秘密があった。彼女は女性として登録するのではなく、男性のプロフィールを作成したのだ。
「源 光」
そう名付けられたプロフィールには、28歳、商社勤務、身長180cm、趣味は読書と書道という情報が並んでいる。プロフィール写真には、ネットで拾ってきたイケメン俳優の画像を使った。
「これで...大丈夫よね」
紫子は不安そうに呟きながら、マッチングを開始するボタンを押した。
数日後、紫子のもとに一通のメッセージが届いた。
「はじめまして、光さん。プロフィール拝見しました。同じ読書好きとして、お話してみたいと思いました。よろしくお願いします。」
送信者の名前は「篁子」。26歳、出版社勤務とある。
「まあ...」
紫子は思わず声を上げた。まさか本当にメッセージが来るとは思っていなかったのだ。
「どうしよう...返事を...」
戸惑いながらも、紫子は返信を始めた。
「こちらこそ、はじめまして。メッセージありがとうございます。読書好きの方とお話できるのを楽しみにしています。」
送信ボタンを押した瞬間、紫子の心臓は高鳴った。
それから数日間、紫子と篁子のやり取りは続いた。好きな作家や最近読んだ本の感想を語り合う中で、二人の会話は徐々に打ち解けていった。
「光さんは、源氏物語をどう思いますか?」
ある日、篁子からそんな質問が届いた。
「まさか...」
紫子は思わず笑みを浮かべた。紫式部の代表作について聞かれるとは。
「源氏物語は、人間の心の機微を見事に描いた傑作だと思います。特に、人々の感情の揺れ動きや、時の流れによる変化が素晴らしいですね。」
紫子は率直な感想を送信した。
「素敵な感想ですね。私も同感です。光さんは文学にも造詣が深いのですね。」
篁子からの返事に、紫子は少し照れくさい気分になった。
日々のやり取りを重ねるうちに、紫子は徐々に篁子に惹かれていった。知的で優しい性格、そして何より文学への深い愛情。まるで自分の分身のような存在に思えた。
「あら...これって...」
ふと我に返った紫子は、自分の気持ちに気づいて慌てた。
「私...女の子に恋をしてる...?」
そんな中、篁子から思いもよらない提案が届いた。
「光さん、よかったら今度お会いしませんか?」
紫子は頭を抱えた。会うわけにはいかない。でも、会いたい。
「ごめんなさい。仕事が忙しくて...」
何度か断り続けたが、篁子の熱意は冷めなかった。
「光さん、本当に会えませんか? もしかして...何か隠していますか?」
その言葉に、紫子は決心した。
「篁子さん、実は...私には隠していることがあります。」
紫子は、自分が女性であること、そして小説の取材のためにこのアプリを使っていたことを正直に打ち明けた。
長い沈黙の後、篁子からの返信が届いた。
「...実は、私も本当のことを言っていませんでした。」
「え...?」
「私の本名は、高橋拓也といいます。男性です。」
紫子は驚きのあまり、スマートフォンを取り落としそうになった。
「私も小説家で...次の作品の参考にしようと思って...」
二人とも同じ目的で、お互いを騙し合っていたのだ。
紫子は、大声で笑い出した。
「なんて...面白い巡り合わせ...」
笑いが収まると、紫子は深呼吸をして、もう一度メッセージを送った。
「拓也さん、改めまして。私は藤原紫子と申します。本当に申し訳ありませんでした。でも...これも何かの縁だと思います。よければ、本当に会ってみませんか?」
数分後、返信が届いた。
「紫子さん、こちらこそ申し訳ありませんでした。是非お会いしたいです。今度の日曜日、お時間はありますか?」
紫子は満面の笑みを浮かべながら、「はい、大丈夫です」と返信した。
日曜日、京都の小さなカフェで二人は初めて対面した。
「やあ、初めまして。高橋拓也です。」
「初めまして、藤原紫子です。」
お互いに照れくさそうに挨拶を交わす二人。
「まさか、同じことを考えている人がいるなんて...」
拓也が苦笑いしながら言った。
「本当に...小説より奇なものね」
紫子もくすっと笑った。
二人は、これまでのやり取りの真実と嘘について率直に語り合った。そして、お互いの作家としての思いや、文学への情熱を共有した。
「紫子さん、僕...本当の紫子さんにも惹かれています」
突然の告白に、紫子は顔を赤らめた。
「私も...拓也さんのことを...」
二人は見つめ合い、そっと手を重ね合わせた。
それから1年後、紫子と拓也は二つの小説を同時に発表した。
タイトルは「マッチングアプリは嘘をつく」。
二人の視点から描かれた、奇妙で愛おしい出会いの物語。それは瞬く間にベストセラーとなった。
「ねえ、拓也」
新居のリビングで原稿を読み返しながら、紫子が言った。
「なに?紫子」
「私たちの本当の物語は、これからよね」
拓也は優しく微笑んで答えた。
「ああ、そうだね。でも、おそらくこれからの物語も、小説よりもずっと奇妙で素晴らしいものになるんだろうな」
二人は笑い合い、再び仕事に戻った。彼らの新しい物語は、まだ序章に過ぎなかった。
窓の外では、京都の町並みが静かに佇んでいる。新しい恋の物語が始まろうとしていた。紫式部の時代から変わらない、人の心の機微。それは、どんなに時代が変わっても、人々の心に深く刻まれ続けるのだろう。
紫子は、スマートフォンを見つめながら、そっと呟いた。
「源氏様...私、幸せです」
その瞬間、桜の花びらが、そっと窓辺を舞った。
コメント