朝日が窓から差し込み、埃の舞う一室を照らし出す。古びた棚の上に置かれた目覚まし時計が、鈍い音を立てて五時を告げた。その音に反応するように、ベッドの中で一つの影が動いた。
「ん...」
低い呻き声と共に、毛布の中から一人の青年が顔を出す。肌は白く、目は細く、髪の毛は柔らかく垂れ下がっている。いわゆる'チー牛'と呼ばれる風貌だ。
彼の名は佐藤裕也。二十三歳、大学卒業後、地元の中小企業に就職した。平凡な日々を送る、どこにでもいる若者の一人だった。
裕也は重たい体を起こし、ベッドの端に腰かける。暗い部屋の中で、彼は自分の両手をじっと見つめた。細く、骨ばった指。力なく垂れ下がる肩。
「このままじゃ...いけない」
昨日の夜、偶然見かけた高校時代の同級生。たくましい体つきに成長した彼を見て、裕也は自分の姿を思い知らされた。そして決意したのだ。変わろうと。
裕也は立ち上がり、部屋の隅に置かれた鏡の前に立つ。そこに映るのは、華奢な体つきの青年。胸は薄く、腕は細い。
「今日から...始めよう」
彼は小さく呟いた。そして、キッチンに向かう。冷蔵庫を開け、中から一本のバナナを取り出した。
バナナを手に取り、裕也は少し躊躇う。今まで朝食など取らず、コンビニのおにぎりで済ませることが多かった。しかし、昨夜見たYouTube動画で、筋トレには栄養が大切だと学んだ。
「いただきます」
小さな声で言い、裕也はバナナの皮をむき、一口かじった。甘い香りが口の中に広がる。
「...美味しい」
思わず声が漏れた。こんなにも朝食が美味しいと感じたのは、いつ以来だろう。
バナナを平らげた後、裕也は部屋に戻り、スマートフォンを手に取る。昨夜見ていた筋トレ動画を再生し、初心者向けのメニューを確認する。
「腕立て伏せ...10回」
裕也は恐る恐る床に手をつき、体を伏せる。
「1...2...3...」
数を数えながら、彼は必死に腕を曲げ伸ばしする。5回目を過ぎたあたりから、腕が震え始めた。
「7...8...」
歯を食いしばり、何とか10回をこなす。
「はぁ...はぁ...」
床に倒れ込みながら、裕也は大きく息を吐いた。たった10回の腕立て伏せで、全身から汗が吹き出している。
「情けない...」
そう思いながらも、裕也は次のメニューに取り掛かった。スクワット、腹筋、背筋と、動画に従って体を動かす。どの種目も、最後まで行うのがやっとだった。
「くっ...」
痛みと疲労で顔をゆがめながら、裕也は必死に体を動かし続けた。20分ほどのトレーニングだったが、終わる頃には全身が火照り、呼吸は乱れていた。
「終わった...」
裕也は床に寝そべり、天井を見上げた。体中が痛い。でも、不思議と気分は悪くなかった。むしろ、何か達成感のようなものを感じていた。
「明日も...頑張ろう」
そう呟きながら、裕也はゆっくりと立ち上がった。時計を見ると、まだ6時前だ。いつもより早く起きたおかげで、朝のルーティーンを済ませる時間が十分にある。
シャワーを浴び、制服に着替える。鏡の中の自分を見て、裕也は少し背筋を伸ばした。たった一回のトレーニングで、体が変わるわけではない。それでも、何かが変わり始めた気がした。
「行ってきます」
両親に挨拶をし、裕也は家を出た。朝の空気が、いつもより清々しく感じられる。
会社に向かう電車の中で、裕也は自分のスマートフォンを取り出した。昨夜見ていた筋トレ系YouTuberのチャンネルを開き、チャンネル登録ボタンを押す。
「チャンネル登録、ありがとうございます!」
画面の中の筋肉質の男性が、笑顔で語りかけてくる。
「みなさん、覚えていてください。筋トレは、毎日の小さな積み重ねが大切なんです。今日より明日、明日より明後日。少しずつでいいんです。大切なのは、継続することです」
裕也は、その言葉を胸に刻むように聞いていた。
「そうか...毎日の積み重ねか」
彼は小さくつぶやいた。
電車が会社最寄りの駅に到着し、裕也は降り立つ。いつもと同じ道を歩きながら、彼は少し違う景色を見ていた。行き交う人々の中に、たくましい体つきの人を見つけると、「あんな風になりたい」と思う自分がいた。
会社に到着し、裕也は自分のデスクに着く。パソコンを起動し、今日の仕事の準備を始める。
「おはよう、佐藤くん」
同僚の田中さんが声をかけてきた。
「おはようございます、田中さん」
裕也は少し背筋を伸ばしながら返事をした。
「なんか今日は元気そうだね。何かあったの?」
「いえ...特には」
裕也は少し照れくさそうに答えた。まだ誰にも言えない。この小さな、でも自分にとっては大きな変化を。
午前中の仕事を終え、昼休憩の時間がやってきた。いつもなら、コンビニで適当に済ませていた昼食だが、今日は違った。
裕也は自分で作った弁当を取り出した。白米の上に鶏の胸肉が乗り、付け合わせには茹でたブロッコリーとミニトマト。YouTubeで見た、筋トレに適した食事を参考に作ったものだ。
「へぇ、珍しく手作り弁当?」
隣の席の後輩が驚いた様子で聞いてきた。
「ああ...ちょっとね」
裕也は少し恥ずかしそうに答えた。
昼食を食べながら、裕也は自分のスマートフォンでカレンダーアプリを開いた。そして、今日の日付に小さなマークをつける。
「1日目...」
彼は小さくつぶやいた。長い道のりの、ほんの一歩に過ぎない。でも、その一歩を踏み出せたことに、小さな誇りを感じていた。
午後の仕事が始まり、裕也は黙々とパソコンに向かう。しかし、時々、彼は自分の腕や胸に意識を向けていた。朝のトレーニングで使った筋肉が、微かに痛む。その痛みが、彼に変化の兆しを感じさせた。
仕事を終え、裕也は帰路につく。電車の中で、彼は再び筋トレ動画を見始めた。明日のメニューを確認し、自分にできそうかどうかをイメージする。
家に帰り、夕食を済ませた後、裕也は再び自室に戻った。鏡の前に立ち、自分の体を見つめる。
まだ何も変わっていない。それでも、彼は確かに感じていた。何かが、ほんの少しだけ、変わり始めたことを。
「明日も...頑張ろう」
裕也はそう呟きながら、明日の朝食用のバナナを買いに、近くのコンビニへと向かった。
夜の街を歩きながら、裕要は空を見上げた。満天の星空が、彼を見守るように輝いていた。その光は、彼の未来を照らす道標のようだった。
チー牛と呼ばれる青年の、小さくも大きな一歩。それは、一本のバナナから始まった。そして、その一歩が、彼の人生を少しずつ、でも確実に変えていくのだろう。
明日もまた、目覚まし時計が鳴り、朝日が差し込み、一本のバナナが彼を待っている。
裕也の新しい朝が、そこから始まるのだ。
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