2045年、人類は火星への移住計画を本格的に始動させた。地球の環境悪化と人口過密に悩まされ続けてきた人類にとって、火星は希望の星だった。しかし、誰もが想像もしなかった現実が、そこには待ち受けていた。

佐藤明は、火星移住計画の第一陣として選ばれた500人のうちの1人だった。35歳の彼は、地球での生活に行き詰まりを感じていた。離婚、リストラ、借金。すべてを捨てて新天地で人生をやり直したいという思いが、彼を火星へと向かわせた。

火星到着から1週間。明は興奮していた。

「ついに新しい人生の始まりだ」

しかし、その興奮は長くは続かなかった。

最初に彼を襲ったのは、想像を絶する孤独感だった。地球から1億5000万km以上も離れた場所。家族や友人との通信には20分以上のタイムラグがある。会話というよりは、一方的なメッセージの交換でしかなかった。

「こんなはずじゃなかった...」

明は毎晩、赤い砂漠を見つめながらため息をついた。

次に彼を苦しめたのは、閉鎖環境によるストレスだった。火星基地は、放射線や極端な気温変化から身を守るために、完全に密閉された空間だった。外に出るには特殊なスーツを着用し、厳重な手順を踏む必要がある。自由に外を歩くことはできない。

「まるで刑務所のようだ」

そう思い始めた頃から、明は同僚たちの些細な言動にイライラし始めた。

しかし、これらはまだ序の口に過ぎなかった。

火星の重力は地球の約3分の1。当初は楽しく感じた軽やかな動きも、次第に体に異変をもたらし始めた。骨密度の低下、筋力の衰え、心臓機能の低下。毎日何時間もの特殊なトレーニングを課されても、体の衰えは止まらなかった。

「こんなことなら、地球に残るべきだった」

後悔の念が、日に日に強くなっていった。

そして、最後の一撃が訪れた。

火星の土壌から未知の微生物が発見されたのだ。当初は大発見として祝福されたその微生物は、しかし、人体に深刻な影響を及ぼすことが判明した。

感染者の脳内に寄生し、幻覚や妄想を引き起こす。最悪の場合、発狂や自殺に至るケースもあった。

パニックが火星基地を襲った。

「誰を信じていいのかわからない」
「あいつは感染しているんじゃないか?」
「俺は大丈夫だ。本当だ。信じてくれ」

疑心暗鬼が人々を蝕んでいった。

明も例外ではなかった。彼は自分の影さえ疑うようになっていた。鏡を見るたびに、自分の顔が歪んで見える。幻覚なのか現実なのか、区別がつかなくなっていった。

「ここは地獄だ...」

彼はついに精神的な限界を迎えた。

ある日、明は決意した。もう耐えられない。地球に帰るんだ。しかし、現実はそう簡単ではなかった。

火星から地球への帰還船は、2年に1度しか運航されない。しかも、すべての席はすでに予約で埋まっていた。

「冗談じゃない!俺をここから出してくれ!」

明の叫びは、誰にも届かなかった。

そして、最終的な絶望が彼を襲った。

地球からの通信で、彼は知らされた。地球の環境はさらに悪化し、もはや人が住める状態ではなくなっているという。

「戻る場所さえ...ないのか」

明は茫然自失となった。

火星。かつては希望の星だった。しかし今、それは絶望の惑星と化していた。

閉鎖された空間。衰えていく体。蝕まれていく精神。そして、逃げ場のない現実。

明は、自分の人生が取り返しのつかない生き地獄になったことを、痛感した。

「なぜ、こんなことに...」

彼の問いかけに、答える者はいなかった。ただ、赤い砂漠が無言で広がっているだけだった。

火星基地の一室で、明は膝を抱えて座り込んだ。窓の外には、相変わらず赤い砂漠が広がっている。かつては新天地に思えたその景色が、今では永遠の監獄のように感じられた。

「ここから逃げ出したい...でも、どこにも行けない」

その時、明の脳裏に一つの考えが浮かんだ。

「そうだ...ここから出る方法が一つある」

彼は震える手で、火星探査用のスーツを手に取った。

「さよなら...みんな」

明は基地の出口に向かった。警報が鳴り響く中、彼は気密室の扉を開けた。

真っ赤な砂漠が、彼を待っていた。

明は深呼吸をした。スーツを脱ぎ捨て、一歩前に踏み出す。

その瞬間、彼の意識は闇に包まれた。

火星の大気は、人間が生きていくには適していない。極端な低気圧、二酸化炭素が大半を占める空気組成、そして極寒の気温。人間の体は、わずか数十秒でその機能を停止してしまう。

明の最期は、苦しいものではなかったかもしれない。少なくとも、彼が感じていた生き地獄よりはましだったのかもしれない。

翌日、基地の仲間たちが明の遺体を発見した。

「なぜ彼はこんな選択をしたのだろう」
「我々は何か間違っていたのだろうか」

疑問と後悔が、残された人々の心を満たした。

しかし、答えは誰にもわからなかった。

ただ、火星の赤い砂漠だけが、すべてを見守っているかのように静かに広がっていた。

人類の夢と希望を乗せて始まった火星移住計画。しかし、その現実は残酷なものだった。

人間は、地球という特別な環境で進化してきた生き物だ。その環境から切り離された時、肉体的にも精神的にも耐えられない苦痛を味わうことになる。

火星に住めない理由。それは単に技術的な問題だけではない。

人間の本質的な限界が、そこにはあったのだ。

明の悲劇は、決して彼一人のものではなかった。多くの移住者たちが、同じような苦しみを味わっていた。

彼らの中には、明のように極端な選択をする者もいれば、必死に現状に適応しようともがく者もいた。しかし、誰もが「生き地獄」という言葉を、心の中でつぶやいていた。

火星移住計画は、人類に大きな教訓を残した。

我々は、どこまで行っても「地球の子」なのだと。

そして、本当の課題は遠く離れた星に逃げ出すことではなく、自分たちの故郷である地球をいかに守り、より良いものにしていくかということなのだと。

明の物語は、火星の赤い砂に埋もれていった。しかし、彼の遺した教訓は、地球に生きる我々の心に、深く刻み込まれたのである。

101火星へ行こう2

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