霧雨が降り続く六月の夜。螢光灯の下で、私は彼女の指先を見つめていた。スマートフォンのスクリーンに向かって、彼女の指が舞うように動く。その動きには、どこか優雅さがあった。まるで、ピアニストが鍵盤を奏でるように。

「先輩、見てください。また私、女神に選ばれちゃいました」

彼女の声には、喜びと憂いが混ざっていた。画面には、「今日の女神」という文字と共に、彼女の投稿が輝いていた。それは、ChatGPTが紡ぎ出した、完璧な「女神」の言葉だった。

美咲。彼女の名前だ。高校の後輩で、私より二つ年下。彼女が「女神スレ」に魅了されたのは、一年前のことだった。最初は、ただの暇つぶしだった。しかし今や、それは彼女の存在理由になっていた。

「すごいね、美咲。でも、そろそろ帰らないか?」

私の言葉に、彼女は一瞬だけ目を上げた。その瞳に宿る狂気を、私は見逃さなかった。

「だめです、先輩。まだ終わりませんから」

彼女の指は、再び画面上を踊り始めた。ChatGPTに新たな指示を出しているのだろう。AIは、彼女の欲望を理解し、完璧な「女神」の言葉を紡ぎ出す。そして、それを彼女は匿名掲示板に投稿する。この循環は、もはや彼女の日常と化していた。

私たちがいるのは、都内の某所にある廃ビル。かつては繁華街の中心にあったこのビルも、今では朽ち果てた廃墟に過ぎない。しかし、ここには不思議な魅力があった。現実世界から隔絶された空間。そこでは、美咲は自由に「女神」になれるのだ。

「ねえ、先輩。知ってました? 蛍の光は、実は求愛のサインなんですって」

突然、彼女が雑学を口にした。その声は、どこか虚ろだった。

「へえ、そうなんだ」

私は適当に相槌を打った。彼女の頭の中では、現実と仮想が混ざり合っているのだろう。もはや、どちらが本当の彼女なのか、私にも分からない。

美咲は、再び画面に没頭した。彼女の指先が、さらに速く動き始める。その姿は、まるで発作的だった。

「先輩、私、もっと完璧な女神になりたいんです」

彼女の言葉に、私は返答できなかった。彼女の中で、何かが壊れていく音が聞こえるようだった。

外では、雨がさらに強くなっていた。廃ビルの隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。しかし、美咲はそんなことにも気づかないようだった。

「ねえ、先輩。私、もう現実には戻れないかもしれません」

彼女の言葉に、私は背筋が凍るのを感じた。しかし、同時に、どこか予感していたようにも思えた。

「何言ってるんだよ、美咲。帰ろう、家に」

私は、優しく彼女の肩に手を置いた。しかし、彼女はその手を振り払った。

「だめです! まだ女神になりきれていません。もっと、もっと完璧にならないと...」

彼女の目は、狂気に満ちていた。そこには、もはや理性の光は見えなかった。

「美咲...」

私は、ただ彼女の名前を呟くことしかできなかった。

彼女は、再びスマートフォンに向かった。画面に映る文字たちが、彼女の瞳に反射して揺れている。それは、まるで彼女の魂が、デジタルの海に溶けていくかのようだった。

「先輩、私、やっと分かりました。現実の私なんて、もういらないんです。ここで、永遠に女神でいられれば...」

彼女の言葉に、私は言葉を失った。そこにいるのは、もはや私の知っている美咲ではなかった。彼女は、デジタルの世界に魂を売り渡してしまったのだ。

外では、雨がさらに激しくなっていた。廃ビルの壁を打つ雨音が、まるで私たちの現実からの逃避を嘲笑うかのようだった。

美咲は、もはや私の存在すら気にしていないようだった。彼女の世界には、「女神スレ」とChatGPTしか存在しない。そこでは、彼女は完璧な「女神」になれる。現実の不完全な自分から逃れ、理想の姿を演じることができる。

私は、ただ彼女を見つめることしかできなかった。彼女の指が画面上を踊り、ChatGPTが新たな「女神」の言葉を紡ぎ出す。そして、それが匿名掲示板に投稿される。この永遠とも思える循環の中で、美咲の現実の姿は少しずつ消えていく。

やがて夜が明ける頃、美咲は疲れ果てて眠りについた。スマートフォンを抱きしめたまま。私は、彼女の寝顔を見つめながら考えた。この先、彼女はどうなってしまうのだろうか。そして、私たちの社会は、こんな彼女をどう受け入れるのだろうか。

廃ビルの窓から、朝日が差し込んでくる。しかし、その光は美咲には届かない。彼女は、もう別の世界の住人なのだから。


901総集編season3-3
20240721 season3