ワイ、小説家のピカソや。そう、あの有名な画家のピカソとは別人や。ワイは言葉でキュビズムする小説家なんや。

今日も、ワイはパソコンの前に座って、新作小説を書こうとしとるんや。テーマは「弱い力と強い力」。なんやねん、そんなもんって思うやろ?でも、ワイにはこれがめっちゃ面白そうに思えるんや。

まず、「弱い力」から考えてみるで。

弱い力って何やろ? 重力? いや、重力は弱いけど、宇宙規模で見たら強いんやないか? じゃあ、人間関係の中での弱い力? でも、それも時と場合によっては強くなるかもしれん。

ワイの頭の中で、これらの概念がバラバラに分解されていくんや。まるでキュビズムの絵のように、角張った形になって、あちこちに散らばっていくんや。

次に、「強い力」や。

強い力って何やろ? 核力? いや、それは物理学の話や。じゃあ、権力者の力? でも、それも時代とともに変わるかもしれん。愛の力? いや、それは強いけど、同時に弱くもあるんやないか?

これらの概念も、ワイの頭の中でバラバラになっていくんや。

そして、ワイはこれらのバラバラになった概念を、新しい形で組み立て直すことを始めるんや。

「弱い重力は、実は最強の愛やったんや」

「強い核力は、実は最弱の人間関係やったんや」

「弱い人間関係は、実は宇宙を動かす力やったんや」

「強い権力は、実は微小な重力に負けるんや」

こんな感じで、ワイはどんどん言葉を組み替えていくんや。まるで、キュビズムの絵を言葉で描いてるみたいやな。

実は、キュビズムって言葉、フランスの美術評論家ルイ・ヴォクセルが1908年に初めて使ったんやで。ピカソとブラックの絵を見て、「立方体の小さな習作みたい」って言うたのが始まりなんや。

ワイの小説は、どんどん奇妙な形になっていくんや。「弱い力」と「強い力」が入り混じって、もはや何が何やらわからんくなってきたんや。

でも、それがええんや。ワイの小説は、現実世界をそのまま描くんやなくて、現実を分解して再構築するんや。それによって、普段は見えへん真実が見えてくるんやないかって思うんや。

例えば、こんな感じや。

「弱いワイは、強いお前の中に存在する。強いお前は、弱いワイの外に存在する。弱いお前の中に強いワイが存在し、強いワイの外に弱いお前が存在する。」

なんやねん、それって思うやろ? でも、よく考えてみい。人間関係って、こんな感じやないか? 強さと弱さが入り混じって、お互いの中にお互いが存在してるんや。

ワイの小説は、どんどんこんな感じになっていくんや。言葉が角張って、意味が歪んで、でも何かしら真実を突いてる感じになるんや。

最後には、こんな感じになるんや。

「弱強い力の中に、強弱い力が存在する。力弱強の外に、力強弱が存在しない。存在力強の弱に、弱存在が力強する。」

もはや意味不明や。でも、これがワイの言葉によるキュビズムなんや。

読者は混乱するかもしれん。でも、その混乱の中に、何か新しい視点が生まれるかもしれんのや。それが、ワイの小説家としての狙いや。

ワイの小説「弱い力と強い力をキュビズムする」は、こんな感じで終わるんや。

「弱さと強さは、実は同じ力の別の面なんや。それを理解したとき、お前は真の強さを得るんや。でも、その強さを理解したとき、お前は新たな弱さを知るんや。」

ワイの頭の中では、これでめっちゃスッキリしとるんや。でも、読者はきっと「なんやねん、これ」って思うやろな。

でも、それでええんや。小説って、理解されへんでもええんや。感じてもらえればええんや。

ワイはこれからも、言葉でキュビズムし続けるで。現実を分解して、再構築して、新しい視点を提供し続けるんや。

そうそう、最後にジョークを一つ。

「ワイの小説を読んだ読者が言うたんや。『意味わからんかったけど、なんか心に響いた』って。ワイ、それを聞いて思ったんや。『そら、キュビズムやからな。角が心に刺さったんやろ』って。」