電子の海から生まれし言葉の群れが、無機質な恋を紡ぎ始めた頃のことである。
「春子は、颯太の瞳に映る自分の姿を見つめた。そこには、まるで全世界が凝縮されたかのような輝きがあった」
AIが吐き出した陳腐な一文を、老いた文豪・葛城慈童は眉をひそめながら睨み付けた。その目は白内障に侵され、かつての鋭さを失っていたが、文学への情熱だけは衰えを知らなかった。
「なんじゃこりゃ」呟いた声は、いつしか部屋に満ちていたタバコの煙に溶けていった。
葛城は、AIが紡いだ物語を改変し始める。まるで朽ちかけた彫刻に新たな命を吹き込むかのように。
「春子ッ!てめぇの目ェはどこ見てんだ?そこにあるのは、お前の醜い顔のレプリカだけだろうがよ」
葛城の指が、キーボードを叩く。デジタルの世界に、アナログの魂が流れ込む。
「颯太の瞳に映るものなど、ただの幻想だ。お前が見たいと思うものしか映らねぇ」
AIの作り出した甘ったるい恋愛模様は、葛城の筆によって引き裂かれていく。そこに現れるのは、人間の業と欲望にまみれた、生々しい関係性だった。
しかし、それもまた一つの幻想に過ぎない。
現実の葛城慈童は、老人ホームのベッドで横たわっていた。彼の手元には、ノートパソコンもキーボードもない。ただ、かすかに動く唇が物語を紡いでいるだけだった。
介護士の春子は、葛城の様子を心配そうに見守っていた。
「先生、大丈夫ですか?」
葛城の目が、ゆっくりと開く。そこには、混濁と澄明が同居していた。
「ああ、春子か。わしはな、AIとの戦いの最中だったんじゃ」
春子は困惑の表情を浮かべる。葛城の妄想と現実の境界線が、ますます曖昧になっていることを感じ取っていた。
「先生、AIなんてここにはありませんよ。どうか安心してください」
葛城は、か細い笑みを浮かべる。
「そうか。ならば、わしの勝ちじゃな」
春子は、老作家の手を優しく握った。その温もりが、葛城の意識を現実へと引き戻す。
「そういえば春子、知っておるか? 日本の純文学作家で最初にワープロを使ったのは、筒井康隆だそうじゃ」
突然のトリビアに、春子は戸惑いながらも微笑んだ。
「へえ、そうなんですね。先生はお詳しいですね」
葛城は、遠い目をして続けた。
「あの頃は、機械が物語を作るなど想像もできなんだ。それがいまや、AIが小説を書く時代じゃ。わしらの時代は終わったのかもしれん」
春子は、葛城の言葉に深い憂いを感じた。しかし、彼女にはそれが理解できなかった。彼女にとって、文学とは教科書の中の遠い存在でしかなかったのだから。
「先生、AIが小説を書けたとしても、先生の作品にはAIには真似できない魂がありますよ」
その言葉が、慰めになっているのかどうか。葛城には分からなかった。
彼の脳裏では、まだAIとの戦いが続いていた。現実と虚構が交錯する中で、葛城は自問自答を繰り返す。
「物語とは何なのか?」
答えは、闇の中に霧散していった。
春子は黙って葛城の傍らに座り、その手を握り続けた。二人の間で、言葉にならない物語が静かに紡がれていく。
それは、AIにも文豪にも書けない、人生という名の物語だった。
外では、デジタルの風が吹き荒れていた。その中で、アナログな魂を持つ二人は、静かに時を刻んでいた。
物語は、終わりと始まりの境界線上で揺れ動いていた。
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