ワイは思うんや。「罪と罰」にエヴァンゲリオン出すべきやろ!って。なんでやねんって?よう聞いてや。
まず、「罪と罰」っちゅうのは、ドストエフスキーの有名な小説やろ? 主人公のラスコーリニコフが老婆殺して、その後苦悩するっちゅう話や。でもな、ここにエヴァンゲリオン要素ぶち込んだら、もっと深い精神的葛藤描けるんちゃうか?
例えば、ラスコーリニコフがエヴァのパイロットやったらどうや? 老婆の代わりに使徒倒すんや。でも、使徒も生きとる存在やろ? それを殺すことに罪の意識感じるかもしれん。そこからの精神的苦悩、めっちゃ深くなるやん。
それに、ソーニャをレイにしたらどうや? 罪を背負ったラスコーリニコフを、感情表現の乏しいレイが受け入れる。そこにゲンドウみたいな権力者が絡んでくる。もう、複雑怪奇やで。
ポルフィーリー警部は加持さんや。タバコ吸いながら、ラスコーリニコフの心理をどんどん追い詰めていく。「君が使徒を倒したんだね?」みたいな。
そして、エヴァの要素入れると、罪の概念がもっと深くなるんや。人類のために戦うことが、実は人類を滅ぼすことにつながるかもしれん。そんなジレンマ、ドストエフスキーも驚くで。
ちなみに雑学や。「罪と罰」の原題はロシア語で「Преступление и наказание」(プレストゥプレーニエ・イ・ナカザーニエ)っちゅうんや。「犯罪と刑罰」って意味なんやけど、日本語では「罪と罰」って訳されとる。エヴァ要素入れたら、「使徒と裁き」とかになるかもな。
さらに、エヴァの世界観入れると、罪の重さがもっと増すんちゃうか?ラスコーリニコフが一人殺すのと、人類補完計画で全人類の意識を一つにしてまうのと、どっちが重い罪なんや? そんなん考えたら、もう眠れへんで。
それに、エヴァの世界やと、罰も違ってくるやろ。シベリア流刑やのうて、ダミープラグに入れられるとか、LCLの海に放り込まれるとか。そんなん想像したら、もうゾッとするわ。
心理描写だって、複雑になるで。ラスコーリニコフの内面描写に、シンジの「逃げちゃダメだ」って葛藤混ぜたら、もう読者の頭爆発や。
そして、最後の救いのシーンも変わってくるんや。ソーニャ(レイ)が、ラスコーリニコフを許すんやけど、それが人類補完計画の引き金になるとか。もう、どないなっとんねん!
要するに、「罪と罰」にエヴァ要素ぶち込んだら、既存の文学の枠組みぶっ壊れるんや。罪の概念、罰の形、人間の葛藤、全部が次元違いになる。
ドストエフスキーが生きとったら、きっとこう言うで。「ほな、ワイもエヴァ乗ったろか」って。
こないな感じで、「罪と罰」×エヴァの組み合わせは、文学界に革命起こすで。今までにない深さと複雑さを持った作品になるんや。
もちろん、批判もあるやろ。「そんなん、もう別モンやんけ!」っちゅう声も聞こえてきそうや。でもな、それこそが文学の進化やないか?
ワイは断言するで。「罪と罰」にエヴァンゲリオン出すべきや!そしたら、文学の歴史が変わる。いや、人類の歴史が変わるかもしれん。
最後にジョークや。
「『罪と罰』にエヴァ出したら、ラスコーリニコフが『逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ』って言いながら、結局シベリアに逃げてもうたらしいで。」
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