暗い部屋の中で、私は筆を握りしめていた。かつては輝いていた才能も、今では干からびた木の実のように、何の価値も持たない。「多様性」という名の毒が、私の血管を這い回り、創造性を蝕んでいく。
窓の外では、雨が降り続いている。その音が、私の頭の中で反響する。ポリコレ、ジェンダー、LGBTQなど、現代社会が称える「多様性」の言葉たちが、雨粒となって私を打ちのめす。
筆を置き、私は立ち上がった。鏡に映る自分は、まるで別人のようだ。かつての輝きを失った目、深いしわの刻まれた顔。そして、筋肉の付いていない痩せこけた体。
「多様性」は、確かに私から何かを奪った。それは純粋な美への追求だったのかもしれない。あるいは、芸術家としての矜持だったのかもしれない。しかし、それは同時に新たな扉を開いたようにも思える。
私は、ダンベルを手に取った。重い。しかし、この重さこそが、私に欠けていたものなのかもしれない。
筋トレを始めてから、日々が変わっていった。朝は早く起き、タンパク質を中心とした食事を取り、そして黙々とウェイトを上げる。汗が滴り、筋肉が悲鳴を上げる。しかし、その痛みの中に、私は新たな芸術を見出していった。
筋肉の隆起は、まるでミケランジェロの彫刻のようだ。その美しさは、ジェンダーも人種も超越している。純粋な肉体の美、それは「多様性」に蝕まれることのない、永遠の芸術なのかもしれない。
しかし、筋トレにも限界はある。体は確かに変わっていくが、心の奥底にある虚無感は消えない。むしろ、筋肉が付けば付くほど、その空虚さが際立つようになった。
ある日、ジムで知り合った男が私にこう言った。「筋トレは現代の瞑想だ」と。確かに、重りを上げ下げする単調な動作には、ある種の精神性がある。しかし、それは本当に芸術となりうるのだろうか。
私は再び筆を取った。しかし今度は、インクの代わりに自分の汗で紙を濡らす。筋肉の動きを、線として紙に刻んでいく。それは私にとって、新たな表現方法となった。
古代ギリシャでは、運動競技の勝者を称える詩が盛んに作られていたという。ピンダロスの勝利歌がその代表だ。彼らは、肉体の美と詩の美を結びつけることができたのだ。
私もまた、筋トレと芸術を融合させようとしている。それは、「多様性」に抗う新たな表現なのかもしれない。あるいは、単なる自己満足に過ぎないのかもしれない。
鏡に映る自分は、もはや芸術家というよりはボディビルダーに近い。しかし、その姿に私は新たな美を見出している。筋肉の隆起、血管の浮き出た腕、それらは私の新たなキャンバスとなった。
「多様性」は確かに、古い形の芸術を殺した。しかし、それは同時に新たな芸術の誕生を促したのかもしれない。筋トレは、その新たな芸術の一形態となりうるのか。それとも、それもまた「多様性」に飲み込まれ、死んでいくのだろうか。
私には分からない。ただ、筋トレを続ける中で、私は自分の限界を超えていく。そして、その過程そのものが、一つの芸術作品となっていくのを感じている。
雨はいつの間にか止んでいた。窓を開けると、新鮮な空気が流れ込んでくる。私は深呼吸をし、再びダンベルを手に取る。そして、新たな一日が始まる。
「多様性」は芸術を殺すかもしれない。だが、筋トレは私を生かし続けている。それが芸術かどうかは、もはや重要ではない。私はただ、自分の体を彫琢し続ける。それが、私にとっての新たな表現方法となったのだから。
人生もまた、一つの長い芸術作品なのかもしれない。そして私は今、その作品を筋トレという名の鑿で刻んでいるのだ。「多様性」に殺されようと、筋トレに殺されようと、私は自分の芸術を追求し続ける。それこそが、真の芸術家の姿なのだから。
コメント