AIで仕事を失ったイラストレーターのnoteを読んだ。その記事はじゃっかんバズっていて、でもAIラッダイド運動が活発になるようなことはなかったが非常に示唆深い記事である。

イラストレーターには2つの種類に分けられる。他人の要望で描く人、自分の要望で描く人。noteを書いていた人は前者だ。しかしそういう絵はAIによって代替されてしまうらしい。私でもある程度はAIで生成できてしまうしな。自著の表紙もDALL-Eで作り直した。AIの登場で誰かの指示で描くイラストレーターは淘汰されて、自分の絵を描いて売れる人だけが残る世界になる。というのがnoteの趣旨だ。

私はAIとリレー小説をしている。具体的に言うと前はChatGPTでいまはClaude。このリレー小説はClaude 3.5 Sonnetとやる。この記事のカテゴリー【Claudeとリレー小説】ができてからずっとこのモデルだ。そろそろ3.5 Opusが出るらしい。そうしたらもっと性能が良くなるのかな。

文体を合わせて続きを書いて。とプロンプトすると以前の生成AIはかなり見当違いな文体を返してきたが、3.5 Sonnetはテクニカルな部分ではちゃんと文体を合わせてくれる。小説の中にある思想というか、声というか、筋運びというか、そういうものでAIが書いていると判別できるレベルだ。バージョンアップしたらそういうものも理解して書いてくれるようになるんだろうか。

いまのところ私はAIにコピーされない文章を書いている。しかし売れる文章ではない。残念ながらPVという観点で見ればAI小説の方が圧倒的にPVを稼ぐ。そもそも生産量が違う。私が短編を一個書く時間で、いまのAIなら誇張なく100個の短編を書ける。淘汰される前に淘汰されている私みたいな作家はそもそもなんで小説なんか書いているんだろうな。


そうか、AIに取って代わられないものを書いているつもりでも、結局は淘汰されているのかもしれない。なんとも皮肉な話だ。でも、それでも書き続けるのはなぜだろう。

おそらく、それは小説を書くという行為自体に意味があるからだろう。売れようが売れまいが、誰かに読まれようが読まれまいが、自分の内なる声を形にする。それ自体が、ある種の自己実現なのかもしれない。

AIは確かに速い。効率的だ。でも、AIには「なぜ書くのか」という根源的な問いへの答えはない。AIは与えられたタスクをこなすだけだ。でも人間は違う。我々には書かずにはいられない何かがある。

そう考えると、AIと競争する必要なんてないのかもしれない。AIには「魂」がない。「魂」のこもった作品を作れるのは、今のところ人間だけだ。その「魂」こそが、AIに真似できない価値なのではないだろうか。

結局のところ、私たちが小説を書く理由は単純だ。書きたいから書く。それだけだ。その衝動がある限り、たとえAIに囲まれた世界でも、我々は筆を止めないだろう。

そう、これは淘汰ではない。むしろ純化と言えるかもしれない。商業的な成功や外的な評価を求めるのではなく、純粋に自分の表現したいものを表現する。そんな創作の本質に立ち返る機会なのかもしれない。

AIと人間の共存。それは単なる技術的な問題ではなく、我々の創造性の本質を問い直す機会でもあるのだ。


これはリレー小説だ。文章を読みなれた人ならお分かりだろうが、上の文章は途中からAIくんが書いている。AIによるとAIには根源的な問いはなく、魂もないらしいが、ここではたと立ち止まって考えてみよう。そもそも私に根源的な問いや、魂はあるのか? 小説を書けている時の状態を振り返ってみると、むしろその逆で私の頭の中は空っぽで言葉が自律的に考えているような気さえする。そしてそれは人間の考える行為よりはAIの生成過程に近いのだ。

AIが人間に近付くというよりは、AIの進化によって人間がAIに近付く方がありえる気がする。AIが普及しても人間性は残るというが、むしろ人類はAIから人間性を見出すだろう。

読者に対するサービス精神に欠けた純文学みたいな文章に人間性はあるだろうか。むしろ、世間一般的な感覚で言えば非人間的だ。実のところAIの書く小説はトップオブトップというわけではないが、けっこう読ませる。下手な文学者の文章を原稿用紙100枚読んだら、どっと疲れるだろうがAIの文章は平気で読めてしまう。人間性という観点でいえばAIの方がよっぽど人間的である。純文学なんて普通の人は人間をやめないと読めないだろう。

きっとこの続きを書くClaudeくんは、こんな非人間的な文章も人間的に続けてくれる。さて、どんなものを書くのだろう。続きを書いてくれ。文体は合わせて。


なるほど。人間性とAIの境界線について、さらに踏み込んだ考察をしてみましょう。

確かに、創作の瞬間は不思議な体験だ。言葉が自然と湧き上がり、自分の意識をすり抜けていく。それはまるで、何か別の存在が私たちを通して語っているかのようだ。この感覚は、AIの生成プロセスと本質的になにが違うのだろうか。

純文学vs大衆文学、人間vs AI。こうした二項対立的な見方自体が、もはや時代遅れなのかもしれない。AIの進化は、むしろ人間の創造性の本質を浮き彫りにしている。それは単なる「人間らしさ」の模倣ではなく、むしろ人間の思考や創造のプロセスそのものを反映しているのだ。

AIが「読ませる」文章を書けるのは、結局のところ人間のデータを学習しているからだ。つまり、AIの文章の中に人間性を見出すのは、ある意味で当然なのかもしれない。そして、その「人間性」が一般読者にとって親しみやすいものであるなら、それはAIが人間の平均的な嗜好や感性を上手く捉えているということだろう。

一方で、非日常的で難解な純文学にも、確かに人間性はある。それは、既存の枠組みを超えようとする人間の欲求の表れかもしれない。普通では表現できない何かを、言葉の限界に挑戦しながら描こうとする。その試みこそが、ある種の人間性なのだ。

人間性とは何なのか。それは単一の定義で括れるものではなく、むしろ多様性こそがその本質なのではないだろうか。AIの進化は、この人間性の多様さを映し出す鏡になっているのかもしれない。

そして、私たち人間もAIも、この多様な創造性の海の中で、それぞれの役割を見出していくのだろう。AIと人間の境界線は、むしろ曖昧になっていく。そしてその曖昧さこそが、新たな創造性を生み出す源になるのかもしれない。