雨音が窓を叩く夜、私は病室のベッドに横たわっていた。点滴の水滴が規則正しく落ちる音が、時計の針の音と重なって、静寂を奏でていた。
私は天井を見つめながら、人生を振り返っていた。神に祈りを捧げたあの日々、希望を失わないよう必死に信じようとしたあの時間。しかし、今ここにいる私には、もはや祈るべき神はいなかった。
幼い頃、母は私に教えてくれた。「神様はいつもあなたを見守っているのよ」と。その言葉を信じ、私は毎晩祈りを捧げた。学校のテスト、友達との喧嘩、初恋の痛み。すべてを神様に相談した。
大学に入り、神学を学び始めた私は、信仰をより深めていった。聖書の言葉一つ一つに意味を見出し、神の存在を証明しようと必死だった。しかし、学べば学ぶほど、疑問が膨らんでいった。
なぜ神は苦しみを与えるのか。なぜ純粋無垢な人々が苦しまなければならないのか。これらの疑問に、誰も満足な答えをくれなかった。
そんな中、私は恋に落ちた。彼女は神を信じていなかった。「神がいるなら、なぜこんなに世界は残酷なの?」と彼女は問いかけた。その時、私は答えられなかった。
結婚し、子供が生まれた。その瞬間、私は神の存在を確信したと思った。この奇跡は、神なしには説明できないと。しかし、その幸せは長くは続かなかった。
息子が三歳の時、彼は重い病気にかかった。毎日祈った。「神様、どうか息子を助けてください」と。しかし、神は何もしてくれなかった。息子は苦しみながら、私たちの腕の中で息を引き取った。
その日から、私の中の神は死んだ。
宗教心理学という分野があることをご存知だろうか。これは、信仰や宗教的体験を心理学的観点から研究する学問だ。人々がなぜ信仰を持つのか、あるいは失うのか、そのメカニズムを科学的に解明しようとしている。興味深いことに、多くの研究で、信仰は精神的健康にポジティブな影響を与えることが示されている。しかし、同時に、信仰の喪失が深い精神的苦痛をもたらすことも明らかになっている。
息子を失った後、私は教会に行くのをやめた。聖書を開くこともなくなった。妻との関係も冷めていった。彼女は今も信仰を持ち続けているが、私にはもはやそれを理解することはできなかった。
そして今、私はこうして病床に臥している。医者は余命幾ばくもないと告げた。かつての私なら、奇跡を信じただろう。神に祈りを捧げ、救いを求めただろう。しかし今の私には、そんな希望さえない。
窓の外で雨が強くなった。雷鳴が遠くで轟いている。昔なら、これを神の声だと思っただろう。しかし今は、単なる自然現象にすぎないことを知っている。
ベッドサイドの写真立てに目をやる。そこには、息子と妻と3人で撮った最後の家族写真が飾られている。息子の笑顔が、私の心を締め付ける。
「神様、なぜですか」
そんな言葉が、心の中でつぶやかれた。しかし、それはもはや祈りではない。ただの、虚しい問いかけだ。
看護師が部屋に入ってきた。点滴を交換し、体温を測る。彼女の優しい笑顔に、一瞬、何かを感じた。しかし、それは神ではない。ただの人間の温かさだ。
「もし神様がいるなら、こんな風に一人で死なせはしないはずだ」
そう思いながら、私は目を閉じた。深い眠りに落ちていく。もしかしたら、これが最後の眠りになるかもしれない。
しかし、不思議と恐怖はなかった。むしろ、一種の解放感があった。神に縛られることなく、自由に死んでいける。
「やっぱり神様なんていなかったね」
そう呟きながら、私は意識を手放していった。
そして、目覚めた時、私は驚いた。そこには、息子が笑顔で立っていた。
「パパ、おかえり」
その瞬間、私は全てを理解した。神は存在しなかったのではない。神は、私たちが思い描くような存在ではなかっただけだ。神は、愛する人との絆の中に、人々の優しさの中に、そして私たち自身の中に存在していたのだ。
最後の瞬間に、私は微笑んだ。
「ごめんね、神様。疑って」
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