老いた私の指が、埃をかぶった古い日記の表紙をなぞる。開くと、70年前の夏の日の記憶が鮮やかによみがえってきた。

2023年8月15日。人類初の対消滅エンジン起動実験の日。当時22歳だった私は、若き物理学者として、その歴史的瞬間に立ち会う幸運に恵まれた。

実験場は、静かな山間の研究所。世界中から集まった科学者たちの熱気で、施設内は興奮に包まれていた。

「準備は整いました、長谷川博士」

主任研究員の声に、私は緊張で震える手を隠しながら頷いた。

カウントダウンが始まる。10、9、8…。

私の目は、巨大な円筒形の装置に釘付けになっていた。物質と反物質を完全に制御し、莫大なエネルギーを生み出す。そんな夢のような技術が、今まさに現実となろうとしていた。

3、2、1…。

起動のボタンが押される。

一瞬の静寂の後、対消滅エンジンが低いうなりを上げ始めた。そして、驚異的な光景が私たちの目の前に広がった。

エンジンの中心から、青白い光が放射され始めたのだ。それは次第に強さを増し、やがて太陽のような輝きとなった。しかし、その光には不思議な透明感があり、まるで宇宙そのものが凝縮されたかのようだった。

「見えるか、諸君」老教授が感動に震える声で言った。「あれは、宇宙の根源的なエネルギーだ。我々は今、創造の瞬間を目撃している」

私は息をのんだ。目の前で起きていることが、人類の歴史を塗り替える瞬間だと理解していた。

しかし、その感動もつかの間。突如、警報が鳴り響いた。

「エネルギー出力が制御不能に!」
「対消滅反応が暴走します!」

パニックに陥る研究者たち。しかし、その中で老教授だけは冷静さを保っていた。

「諦めるな! 我々にはまだチャンスがある!」

老教授の指示の下、我々は必死に制御を試みた。そして…。

轟音と共に、対消滅エンジンが停止した。実験は失敗に終わったのだ。

しかし、その日見た光の輝きは、私の網膜に焼き付いて離れなかった。

それから70年。対消滅エンジンの研究は、あの日を境に世界中で禁止された。あまりにも危険すぎる技術だと判断されたのだ。

私は、92歳になった今でも、あの日の光景を鮮明に覚えている。そして、人類がその技術を手に入れる日を夢見続けてきた。

「おじいちゃん、また昔の話?」

孫娘の声に、私は我に返る。

「そうだよ、美咲。おじいちゃんが若かった頃の、すごい発明の話さ」

「へえ、聞かせて!」

美咲の目が輝く。私は微笑みながら、あの日の話を始めた。

話し終えると、美咲は少し考え込むように言った。

「でも、おじいちゃん。そんな危ない技術、もう二度と使っちゃダメなんじゃない?」

その言葉に、私は少し寂しさを覚えた。しかし、同時に孫娘の賢明さに誇りも感じた。

「そうだね、美咲。確かに危険な技術かもしれない。でもね、人類の進歩は時に危険と隣り合わせなんだ。大切なのは、その技術をどう使うかということさ」

美咲は真剣な表情で頷いた。

その夜、私は久しぶりに夢を見た。

夢の中で、私は再びあの実験場にいた。しかし今回は、対消滅エンジンは制御可能だった。青白い光が静かに、しかし力強く輝いている。

その光に導かれるように、人類は宇宙へと飛び立っていく。遠い星々に新たな生活の場を見出し、かつてない繁栄を遂げていく。

夢から覚めた時、私の頬には涙が伝っていた。

あの日見た対消滅エンジンの輝きを、もう一度この目で見ることはできないだろう。しかし、その記憶は永遠に私の中で生き続ける。そして、いつかきっと人類は再びその光を手にするはずだ。

翌朝、私は美咲を呼び寄せた。

「美咲、おじいちゃんの話を聞いてくれてありがとう。そして、こんな老いぼれの夢を笑わないでくれてありがとう」

「おじいちゃん…」

「でもね、美咲。夢を持ち続けることは大切なんだ。たとえそれが叶わないとしてもね」

美咲は黙って頷いた。

「さあ、今日は何をして遊ぼうか?」

私は立ち上がり、美咲の手を取った。窓の外では、明るい陽光が降り注いでいる。

今この瞬間を生きること。そして、未来への希望を持ち続けること。それこそが、あの日の対消滅エンジンが私に教えてくれた最大の教訓なのかもしれない。

私たちは、新しい一日へと歩み出した。胸の中では、あの日見た青白い光が、静かに、しかし確かに輝き続けている。