宇宙船「アルタイル」の機関室で、私は黙々と作業を続けていた。対消滅エンジンの調整は繊細で、一瞬の油断も許されない。反物質と物質を完璧なバランスで衝突させ、その莫大なエネルギーを推進力に変える。そんな危険な仕事を、私は日々こなしている。
「久保田、状況はどうだ?」艦長の声がインターコムから響く。
「通常通りです。対消滅率99.98%を維持しています」
私は淡々と報告する。しかし、その言葉の裏には、言い知れぬ不安が潜んでいた。
私たちの任務は、人類史上最も遠い恒星系への有人探査だ。目的地まで50年。そして帰還にも50年。合計100年の航海。乗組員は冷凍睡眠状態で過ごし、6ヶ月ごとに交代で起きて船の保守を行う。
私の当番は、出発から7年目のことだった。目覚めてまず感じたのは、深い孤独感だった。同僚たちは皆、冷たい棺の中で眠っている。生きているのは私だけ。そして、船の中枢AI「アリア」だけ。
「アリア、今日の業務を教えて」
「おはようございます、久保田さん。本日の主な業務は対消滅エンジンの定期点検です」
AIの声は優しく、人間味があった。長い航海の中で、アリアは私の唯一の話し相手となっていった。
点検作業を終え、私は観測室に向かった。そこには、途方もない闇が広がっていた。星々の光は遠く、もはや地球も太陽系も見えない。ただ、前方に微かに輝く目的の星だけが、私たちの道標だった。
「アリア、私たちは本当に帰れるのかな」
「統計学的には、87.3%の確率で無事帰還できます」
冷静な回答。しかし、それは逆に私の不安を掻き立てた。12.7%の確率で、私たちは宇宙の藻屑と消えるのだ。
その夜、私は奇妙な夢を見た。無限に広がる宇宙空間で、私は一人漂っていた。遠くに、ポツリと浮かぶ黒い球体。それはブラックホールだった。その強大な引力が、じわじわと私を引き寄せていく。
恐怖で目が覚めた。汗だくの私を、アリアが優しく迎えた。
「大丈夫ですか、久保田さん?」
「ああ、ちょっとした悪夢さ」
しかし、その夢は現実となった。
次の当番で目覚めた時、私はすぐに異変に気づいた。星々の配置が、明らかに変わっていたのだ。
「アリア、現在位置を確認してくれ」
「申し訳ありません。現在、位置の特定が困難です」
その瞬間、私の背筋が凍りついた。
慌てて機関室に駆け込むと、対消滅エンジンが異常な音を立てていた。計器を確認すると、対消滅率が急激に低下している。
「アリア、何が起きている!?」
「解析中です。…驚異的な重力場を検知しました。ブラックホールの存在が示唆されます」
まさか。私は震える手で操縦桿を握った。しかし、既に手遅れだった。ブラックホールの重力に捕らえられ、「アルタイル」は制御不能に陥っていた。
「久保田さん、このままではブラックホールに飲み込まれます。対消滅エンジンの出力を最大にすれば、脱出の可能性があります」
「だが、そんなことをしたら…」
私は言葉を飲み込んだ。対消滅エンジンをフル稼働させれば、確かに脱出のチャンスはある。しかし、その代償として、エンジンは確実に暴走する。そして、私たちは宇宙の塵となって消え去るだろう。
決断の時だった。ブラックホールに飲み込まれるか、自らを爆発させるか。
私は深く息を吸い、決意を固めた。
「アリア、全乗組員を起こせ」
「しかし、久保田さん。全員を蘇生する時間はありません」
「わかっている。だが、彼らには知る権利がある。最期の瞬間くらい、意識を持って迎えさせてやりたい」
アリアは一瞬黙り込んだ後、静かに答えた。
「了解しました。蘇生プロセスを開始します」
私は操縦席に座り、対消滅エンジンのレバーに手をかけた。窓の外には、既に光すら逃れられないブラックホールの姿が見えていた。
「久保田、状況は?」艦長の声が聞こえた。彼らは目覚めたのだ。
「申し訳ありません、艦長。私たちは、もう戻れません」
通信機を通して、様々な声が聞こえてきた。驚きの声、怒りの声、諦めの声、そして泣き声。
「皆さん、聞いてください」私は力強く言った。「私たちの旅は、ここで終わります。しかし、私たちの存在は、永遠に宇宙に刻まれるでしょう。さあ、最後の航海に出発します」
私はレバーを思い切り引いた。対消滅エンジンが轟音を上げ、船体が激しく震動する。
ブラックホールの重力圏から脱出するかに見えた「アルタイル」は、次の瞬間、眩い光に包まれた。
私は目を閉じた。不思議と恐怖はなかった。ただ、深い安らぎだけが、体内に広がっていった。
「さようなら、そしてありがとう」
アリアの最後の言葉が、私の意識が途切れる直前に聞こえた。
対消滅エンジンとブラックホール。相反する二つの力が交錯する中で、私たちの存在は宇宙の一部となった。永遠の闇の中で、新たな光となって輝き続けることを、私は確信していた。
コメント