令和の時代に突入して早くも数年が経過した。かつての日本社会では当たり前のように飛び交っていた「嫁さんになれよ」という言葉。しかし、今やそんな言葉を軽々しく口にできる空気ではなくなってきている。この変化の背景には、社会構造の変化や価値観の多様化など、様々な要因が絡み合っている。

まず第一に、女性の社会進出と経済的自立が挙げられる。高学歴化が進み、キャリアを重視する女性が増加した結果、「嫁」という概念自体が古臭いものとして捉えられるようになった。「嫁」という言葉には、家事や育児を一手に引き受ける存在というイメージが強く付きまとう。しかし、共働きが当たり前となった現代では、そのような役割分担は現実的ではない。

さらに、晩婚化・非婚化の進行も無視できない。「結婚しない」という選択肢が市民権を得た今、「嫁になれ」という言葉は、相手の人生設計に土足で踏み込むような失礼な響きを持つ。また、同性婚の議論が活発化する中、「嫁」という言葉自体がジェンダーバイアスを含んでいるという指摘もある。

SNSの普及も、この言葉の使用を躊躇させる一因だろう。不適切な発言が瞬時に拡散され、炎上につながるリスクを考えれば、軽々しく「嫁さんになれよ」などと言えるはずもない。むしろ、そのような言葉を使う人間は「時代遅れ」「セクハラ」というレッテルを貼られかねない。

一方で、この変化を単純に「進歩」と捉えるのは早計かもしれない。確かに、個人の選択の自由は尊重されるべきだ。しかし、その裏で失われつつあるものもあるのではないか。例えば、異性への素直な好意表現や、将来を共に歩みたいという真摯な思いを伝える術が、「不適切」の一言で封じ込められてしまう危険性もある。

また、「嫁」という言葉が持っていた、家族の一員として迎え入れるという温かみのあるニュアンスも、失われつつある。「パートナー」や「配偶者」といった中立的な言葉は、確かに平等ではあるが、どこか事務的で冷たい印象を与えかねない。

では、この「言えない時代」にどう向き合うべきか。鍵となるのは、コミュニケーションの質を高めることだろう。「嫁さんになれよ」の一言で済ませるのではなく、相手の人生観や価値観を尊重しつつ、自分の思いを丁寧に言語化する努力が求められる。「一緒に人生を歩みたい」「家族として迎えたい」など、より具体的で誠実な言葉で気持ちを伝える必要がある。

同時に、社会全体として、多様な生き方や関係性を認め合う寛容さも不可欠だ。「嫁」にならない選択をする人々を排除するのではなく、それぞれの幸せの形を尊重し合える社会を目指すべきだ。

令和の時代、「嫁さんになれよ」と言えないからこそ、より深い相互理解と尊重に基づいた関係性を築く機会が生まれているのかもしれない。言葉の選び方一つで、相手への思いやりや時代認識が問われる。それは確かに難しい課題だが、同時に、より成熟した社会を作り上げていくチャンスでもあるのだ。


サラダ記念日 (河出文庫 227A BUNGEI Collection)
俵 万智
河出書房新社
2010-08-03