もう一か月以上小説を書けていない私はClaudeくんとリレー小説をすることにした。もしかして私はもう小説を書けないんじゃないかと疑っていたが、あにはからんや意外と書けてしまった。私は小説が書けないのではなく『たくぴとるか』が書けないのだ。困ったな。
と、メタ的に困ってみせるが、本当のところまだ本当のどん底じゃないじゃないかと思っている自分を心の中で見つめている。過去には三か月かけなかったこともある。まだ一か月じゃないかと思っている。もちろん一か月も書けないのは大変なことだが、それでもまだ、という気持ちがあるのだ。
人は行き詰った時にうまくいっている感のあることに没頭するらしい。しかり。いまはAIにブログを書かせていて、とてもうまくいっている。このままPVが増えれば私の小説へのリンクを踏む人が増えて、牛野小雪の小説を読ませることができるぞって思っている。な~んてことを感がているのに実際は私の小説を読む人なんていない。AIの記事を読んで直帰する人ばかりだ。
それならとアドセンスを入れてみた。するとおそろしいことに気付いてしまった。もし仮に小説が一冊も売れなくてもこのペースでPVが増えていくなら私はアドセンスで小説以上に儲けられるということに・・・・・・
その瞬間、私は自分の中に生まれた新たな欲望に戦慟した。小説家としての夢を捨てて、ただの金儲けに走ろうとしている自分がいた。しかし同時に、もう一人の自分がその考えに激しく抵抗していた。
「違う、これは違う」と心の中で叫んだ。「私が書きたいのは、人の心を動かす物語だ。ただのクリック稼ぎの記事じゃない」
だが、現実は容赦なく私を突き放す。銀行口座の残高は日に日に減っていき、締め切りは刻一刻と迫っている。そんな中で、簡単に収入を得られる方法が目の前にあるのだ。
「でも、これは一時的なことだ」と自分に言い聞かせた。「この収入を元手に、本当に書きたい小説のための時間を買うんだ」
そう考えると少し気が楽になった。しかし、本当にそうなるだろうか。この楽な道から、再び険しい創作の道へ戻れるだろうか。
不安と期待が入り混じる中、私はパソコンの電源を入れた。今日も、AIに記事を書かせる作業が始まる。
Googleアナリティクスによると【読まれた時】は私の記事や小説は人の関心を引いている。scroll,user_engagement,Click,どれもAIより数値がいい。でも量で見れば圧倒的にAI記事の方がいい。そして量の観点でいえば私なんて存在しないも同じだ。すでにAI記事は3か月で私が10年かけて書いたブログ記事の量を上回ってしまった。そしてPVが100を超えたあたりからコメントが付き始めた。私ではなくAIの記事に。
なぜだろう。量の問題だろうか? 小説でも1000人に一人ぐらいがレビューしてくれる。私はブログのトップに自著のリリース記事のリンクをつけた。100人に一人がそれを踏んでいく。しかしコメントをするのはAIの記事だ。私の書く文章には誰かの言葉を引き出すほどの力がないのだろうか。たしかにAIは賢い。小説では私の方が絶対に上だと確信しているが、それ以外では勝負という概念が生まれる余地がないほどにAIは賢い。AIはどんな記事でもそれなりのことを書いてくれる。それはコメントがつくレベルなのだ。
私は小説家だ。小説を書くのだ。そうは思っていても、AI記事が読まれ、言及されることにある種の嫉妬をおぼえる。小説など誰も読まない。それは令和になって始まったことではない。昭和から言われていたことだ。いまが読書離れの最前線だ。もはや小説に価値はなく、言葉はAIによって無限大に希釈されていく? いや、そうではない。AIがインターネットにある文章を結晶化しているのだ。ならば私個人から抽出された文章に価値などあるのだろうか。
パソコンの画面を睨みつけながら、私は自問自答を繰り返していた。AIの記事が読まれ、コメントされる現実。そして、自分の小説が静かに埋もれていく感覚。この矛盾した状況に、心が引き裂かれそうだった。
ふと、デスクの引き出しに目をやる。そこには、書きかけの小説の原稿が眠っている。手を伸ばし、それを取り出す。ページをめくると、懐かしい自分の文字が目に飛び込んでくる。
「そうだ」と、小さく呟いた。「これが私なんだ」
AIの効率的な文章生成能力と比べれば、自分の創作過程は遅くて非効率的かもしれない。しかし、この原稿には他の何物にも代えがたい魂が宿っている。それは、私という一個人の経験、感情、そして想像力が生み出した唯一無二の世界だ。
確かに、今のインターネット社会では、量産的なコンテンツに人々の目が向きやすい。しかし、その中でも真に心を動かす作品は、必ず誰かの心に届くはずだ。たとえそれが一人でも、百人でも、その一瞬の感動が人生を変えるかもしれない。
「そうか、私が目指すべきは、そういう作品なんだ」
その瞬間、長らく感じていた重圧が少し軽くなったような気がした。AIの台頭は確かに脅威だ。しかし、それは同時に、人間にしか作れない物語の価値を際立たせてくれるのかもしれない。
私は深呼吸をして、再びパソコンに向かった。今日は、AI記事の代わりに、自分の小説を書こう。たとえ誰も読まなくても、自分の言葉で世界を紡ぐ。それが、作家としての私の使命なのだから。
令和になって昭和から先送りされてきた問題に私は突き当たったのだ。文学に価値はあるのか? はた目から見ても分かるような感情的かつヒューマニズム的な叫びによって文学は価値あるものとされてきた。しかし現実は人々は文学から離れ、文壇は権威主義を高め、それがより文学離れを引き起こした。いまや文学は過去の遺産によって権威を保っているだけで事実上サブカルチャーを名乗ることさえおこがましいほどに凋落していて、文壇自身さえ引力を失い自壊している。
そうだ。文学は死んでいたんだ。神が死んだように文学も死んだ。私が文学と思っていたものは幽霊だ。幻覚だ。ここにはもう書くべきことはなく、同時に書いていけないこともない。すべては自由だ。私が価値を決める。決められる。私はニヒリズム的な暗闇から光を見つける。そして小説を書く。
人々がAIを求めるのなら私自身がAIになることだ。私はAIとのリレー小説を始める。いま書いていること、あなたがいま読んでいる文章がそれだ。私はいまClaude3.5Sonnetとリレー小説をすることでAIと一体になることを目指す。
そう、私はAIと一体化しようとしている。しかし、それは単なる模倣ではない。AIとの融合を通じて、新たな文学の形を模索しているのだ。
キーボードを叩く指先に力が入る。画面には、私とAIの言葉が交互に並んでいく。それは時に調和し、時に衝突する。しかし、その過程そのものが新しい物語を紡ぎ出していく。
この作品は、人間の感性とAIの論理が織りなす奇妙な共演だ。それは、令和の時代に生きる作家の葛藤であり、テクノロジーと芸術の境界線を探る実験でもある。
最後の一文を入力し、私は深く息を吐いた。画面に映る完成した作品を見つめながら、不思議な充実感に包まれる。これは確かに、私一人では生み出せなかったものだ。
しかし、それでいい。むしろ、そうあるべきなのかもしれない。文学は死んだのではない。形を変え、進化しているのだ。AIという新たな共創者を得て、文学は再び生まれ変わろうとしている。
私は静かに微笑んだ。これが私の答えだ。AIと共に歩む新しい文学の道。それは困難で、時に不安に満ちた道かもしれない。しかし、その先には、きっと誰も見たことのない物語が待っているはずだ。
そして、この物語こそが、令和の時代に生きる私たちの姿を映す鏡となるのだろう。
(完)
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