三上雄二は、デビューから15年目にして初めて年収1000万円を超えた。それは彼の50歳の誕生日と奇しくも重なっていた。

「おめでとうございます、三上先生」
編集者の山田が氷の浮かぶウイスキーグラスを掲げる。高級ホテルのバーで、二人きりの祝賀会だった。

「ありがとう」
三上は力なく答えた。グラスを傾けるその手が、わずかに震えていた。

「どうかされましたか?」
「いや...なんでもない」

三上の脳裏には、15年前のある場面が浮かんでいた。文学賞の授賞式。若き日の彼は、輝かしい未来を夢見ていた。そこには金銭的な成功など含まれていなかった。ただ、魂を揺さぶる作品を世に送り出したいという純粋な願いだけがあった。

その夢は、いつしか歪んでいった。
売れない日々が続き、生活の重圧に押しつぶされそうになる。
そんな中、彼は少しずつ妥協を重ねていった。
読者受けのする話題を選び、分かりやすい文体を心がけ、締め切りに追われる日々。

そして今、ようやく手にした年収1000万円。
しかし、それと引き換えに失ったものは何だったのか。

「山田君」
三上は突然、問いかけた。
「君は、私の作品をどう思う?」

山田は一瞬戸惑ったが、すぐに営業スマイルを浮かべた。
「もちろん、素晴らしいと思います。だからこそ、これだけ売れているんですよ」

「そうか...」
三上は深くため息をついた。
「でも、私にはもうわからないんだ。自分の作品が本当に良いものなのか、ただ売れているだけなのか」

山田は困惑の表情を浮かべた。
「先生、何を仰っているんですか。売れているということは、読者に支持されているということです。それこそが作家の価値ではないですか?」

三上は窓の外を見つめた。東京の夜景が煌めいている。
「そうかもしれない。でも、私が本当に書きたかったものは、もっと別のものだったような気がする」

「先生...」

「私は、魂の叫びを書きたかったんだ。人間の本質に迫るような、そんな作品を」
三上は自嘲気味に笑った。
「でも今の私には、そんな作品は書けない。むしろ、書こうとする勇気すらないんだ」

山田は言葉を失った。彼にとって、三上は成功した作家のモデルケースだった。年収1000万円を稼ぐ作家は、業界でもごく一部。それを成し遂げた三上が、こんな発言をするとは思ってもみなかった。

「先生、でも...」
山田が何か言いかけたとき、三上は彼を遮った。

「山田君、私は決心したよ」
「え?」
「次の作品で、全てを賭けるつもりだ」

三上の目に、久しぶりの輝きが宿った。
「今までのように売れる保証はない。むしろ、全く売れないかもしれない。でも、私は本当に書きたいものを書く」

「でも、先生!そんなことをしたら...」

「わかっている。今の地位も、収入も、全て失うかもしれない。でも、それでいいんだ」

三上は立ち上がり、窓に歩み寄った。
「私はね、山田君。ずっと自分を偽って生きてきたような気がするんだ。年収1000万円を稼ぐ小説家になることが、本当の成功だと思っていた」

彼は振り返り、山田を見つめた。
「でも違うんだ。本当の成功は、自分の魂に正直に生きることなんだ」

山田は言葉を失った。彼の中で、ビジネスとしての出版と、芸術としての文学の狭間で葛藤が起きていた。

「先生、私にはよくわかりません」
山田は正直に告白した。
「でも、先生がそう決心されたのなら...私も全力でサポートします」

三上は微笑んだ。
「ありがとう、山田君」

その夜、三上雄二は15年ぶりに、魂の震えるような一文を書いた。
それは、年収1000万円の小説家から、一人の純粋な表現者への変容の始まりだった。

しかし、この決断が正しかったのか、それとも愚かな選択だったのか。
それを判断するのは、読者たち、そして時間そのものだろう。

小説家と年収1000万の距離。
それは時に近く、時に遠い。
そして時に、越えてはならない一線なのかもしれない。

(おわり)


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