蝉の鳴き声が聞こえない夏。それが当たり前になって久しい。代わりに耳に届くのは、対消滅エンジンの低い唸り声だ。
私は窓辺に立ち、遠くを見つめる。かつては緑豊かだった景色も、今では無機質な建造物が立ち並ぶ。空は薄い灰色に覆われ、太陽の光は微かに滲む程度だ。
「美咲、準備はいいか?」
父の声に振り返ると、彼は既に出発の準備を整えていた。白衣の下から覗く腕には、生体認証用のタトゥーが青く光っている。
「ええ、待っていたわ」
私は小さく頷き、自分の腕のタトゥーを確認する。これがなければ、研究所には入れない。
私たち親子は、対消滅エンジン開発の中心人物だ。人類の存続がかかった究極のエネルギー源。それを完成させるのが、私たちの使命だった。
研究所に向かう道中、街並みは静まり返っていた。かつての賑わいは失われ、人々の姿はめっきり減っていた。エネルギー危機と環境破壊が極限まで進んだ結果だ。
研究所に到着すると、すぐさま作業に取り掛かる。対消滅エンジンは、物質と反物質を衝突させることでエネルギーを生み出す。理論上は、究極のクリーンエネルギーとなるはずだった。
しかし、現実は厳しい。制御は困難を極め、一歩間違えれば壊滅的な事故につながりかねない。それでも、私たちには選択肢がなかった。このまま行けば、人類は確実に滅びる。賭けに出るしかなかったのだ。
「美咲、出力を10%上げてくれ」
父の指示に従い、私はコンソールを操作する。エンジンの唸り声が大きくなり、研究所全体が微かに震動する。
「良し、安定している。このまま20%まで上げよう」
緊張が高まる中、私たちは慎重にパワーを上げていく。すると突然、警報が鳴り響いた。
「反物質の制御が不安定になっています!」
私の叫び声に、父は素早く対応を始める。しかし、もう遅かった。
眩い光が研究所を包み込み、そして―
私は目を覚ました。汗だくの体で、ベッドの上で息を荒げている。
窓の外では、蝉の鳴き声が響いていた。
現実に戻った安堵感と共に、深い喪失感が込み上げてくる。夢の中の世界は破滅していたかもしれない。しかし、そこには確かに父がいた。
現実の父は、10年前のある夏の日に事故で亡くなっていた。対消滅エンジンの研究はそれきり頓挫し、私一人では再開する術もなかった。
私は起き上がり、窓を開ける。生暖かい風が頬を撫でる。蝉の鳴き声が耳に響く。遠くでは、従来型の発電所から立ち上る煙が見える。
人類は何とか持ちこたえている。しかし、いつまで続くのだろうか。父と私が夢見た未来は、まだ遠い。
私は決意を新たにする。父の遺志を継ぎ、対消滅エンジンの研究を再開しよう。それが、この美しくも脆い夏の風景を守る唯一の道だと信じて。
腕には、父から受け継いだ生体認証用のタトゥーがある。それは今や、ただの装飾に過ぎない。しかし、いつかきっと再び光を放つ日が来るはずだ。
私は深呼吸し、部屋を出る。新たな一日が始まろうとしていた。対消滅エンジンの唸り声は、まだ夢の中だけのものだ。しかし、いつかその音が現実の夏に響き渡る日を夢見て、私は一歩を踏み出す。
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