アスパラガスの森を抜けたら対消滅エンジンの音が聞こえた

緑の壁が続く。まっすぐに伸びた茎が幾千本も林立し、その先端に星を模したように広がる葉が、風に揺れている。アスパラガスの森だ。

私は歩く。足元の柔らかな土を踏みしめながら、一歩、また一歩と前に進む。周囲には誰もいない。ただ、どこからともなく聞こえてくる虫の音だけが、この静寂を破っている。

なぜ私がここにいるのか、はっきりとは思い出せない。ただ、どこかへ向かわなければならないという切迫感だけが、体の中を駆け巡っている。

森の中を歩き続けて何時間が経っただろうか。時計を見ようとしても、腕には何も巻かれていない。ポケットを探っても、スマートフォンの感触はない。ただ、太陽の位置だけが時間の経過を教えてくれる。

やがて、森の様子が少しずつ変わり始めた。アスパラガスの茎の間隔が徐々に広がり、遠くを見通せるようになってきた。そして突然、森が途切れた。

目の前に広がったのは、想像を絶する光景だった。

広大な平原。しかし、そこには草一本生えていない。大地は灰色で、まるで月面のように荒涼としている。そして、その荒野の中央に、巨大な球体が鎮座していた。

それは完全な球ではなかった。表面には無数の凹凸があり、まるで人工の山脈のようだった。そして、その球体から、奇妙な音が聞こえてきた。

ブーン、ブーン。

低く、しかし力強い唸り声のような音。それは規則正しく、まるで巨大な生き物の鼓動のようだった。

私は恐る恐る、その球体に近づいていった。近づくにつれ、音は大きくなる。そして、その正体が明らかになった。

対消滅エンジン。

かつて、科学の教科書で読んだことがある。物質と反物質を衝突させ、莫大なエネルギーを生み出す装置。しかし、それは理論上の存在で、実際に作られたという話は聞いたことがなかった。

なぜ、こんな場所に。そして、なぜ私がここにいるのか。

疑問が次々と湧き上がる中、突然、球体の一部が開いた。そこから、一人の人影が現れた。

白衣を着た老人だった。髪も髭も真っ白で、顔にはしわが刻まれている。しかし、その目は若々しく、好奇心に満ちていた。

「よく来たね」老人が言った。「君を待っていたよ」

「私を?」思わず声が出た。「なぜ私が...ここに?」

老人は優しく微笑んだ。「君は、未来から来たんだ」

その言葉に、私の中で何かが弾けた。記憶の断片が走馬灯のように駆け巡る。

荒廃した地球。死に絶えた生命。そして、最後の希望としての時間旅行計画。

「そうだ...」私は呟いた。「私は、過去を変えるために...」

老人はうなずいた。「そう、君は人類最後の使者なんだ。この対消滅エンジンを止めるために」

「でも、なぜアスパラガスの森を...?」

「それは君自身が選んだんだよ」老人は言った。「最後に見た緑の記憶。それが君を導いたんだ」

私は深く息を吸い込んだ。使命を果たすべき時が来たのだ。

「どうすれば...エンジンを止められますか?」

老人は悲しそうな顔をした。「簡単だよ。ただ、君の存在そのものが鍵なんだ」

その意味を理解するのに、時間はかからなかった。

私が消えれば、未来は変わる。エンジンは作られず、地球は破滅を免れる。

「怖くはないのかい?」老人が尋ねた。

私は首を横に振った。「怖いです。でも、これが私の役目なら...」

老人は静かにうなずき、私の肩に手を置いた。その手は温かく、不思議と心が落ち着いた。

「さあ、行こうか」

私たちは、ゆっくりとエンジンに向かって歩き始めた。ブーンという音が、次第に大きくなっていく。

最後に、私は振り返った。アスパラガスの森が、風に揺れている。あの緑が、未来にも残されることを願って。

そして、私は対消滅エンジンの中へと歩み入った。

瞬間、世界が白く染まり、すべてが消えていった。

アスパラガスの森だけが、永遠に緑を保ち続けるように。

(おわり)

山桜
牛野小雪
2021-12-05


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