東京の喧騒から逃れるように、私は深夜の銀座を歩いていた。ネオンの光が雨に濡れた歩道に反射し、現実とも幻想とも区別がつかない風景を作り出していた。そんな中、ふと目に入ったのが、深夜営業のアンティークショップだった。
店内に足を踏み入れると、時代錯誤な品々が無秩序に陳列されていた。ビクトリア朝の鏡、昭和初期のラジオ、江戸時代の浮世絵。そして、その奥に彼女はいた。
白磁のような肌をした娘。
最初、私は彼女を等身大の人形だと思った。しかし、彼女が瞬きをした瞬間、私の心臓は激しく鼓動を打ち始めた。
「いらっしゃいませ」
彼女の声は、古い蓄音機から流れる音楽のように、かすかに歪んでいた。
「君は...人間?」
私の問いかけに、彼女は微笑んだ。その表情があまりにも人間離れしていて、私は戸惑いを覚えた。
「そうですね。人間...なのかもしれません」
彼女の答えは、問いよりもさらに謎めいていた。
彼女の名前はミヨ。このアンティークショップのオーナーの娘だという。しかし、彼女の存在そのものが、まるでこの店に並ぶアンティークの一つのようだった。
その日以来、私は毎晩のようにそのショップに通った。ミヨとの会話は、いつも現実と非現実の境界線上を彷徨っていた。彼女は20世紀初頭のパリの話を、まるで昨日の出来事のように語り、次の瞬間には量子力学の最新理論を論じた。
「あなたは、私が本当に存在すると思いますか?」ある夜、ミヨが突然尋ねた。
「君がここにいるのは確かだよ」
「でも、私の記憶は本当に私のものなのでしょうか。それとも、誰かが作り上げた物語なのでしょうか」
彼女の問いかけは、私自身の存在をも揺るがした。私たちの現実とは何なのか。記憶とは、アイデンティティとは。
ミヨとの時間は、哲学的な問いと甘美な恋心が入り混じった、奇妙な体験だった。彼女の白磁のような肌に触れたいという欲望と、その行為が彼女の非現実性を壊してしまうのではないかという恐れが、私の中で常に葛藤していた。
ある夜、私は勇気を出してミヨに告白した。
「君を愛している」
ミヨは悲しそうな顔をした。
「でも、私は本当に存在するのでしょうか。あなたは、存在するかどうかもわからないものを愛せますか?」
その瞬間、店内の古い柱時計が12時を告げた。ミヨの姿が、まるでホログラムのようにちらついて見えた。
「私の時間は終わりました」ミヨはそう言って、徐々に透明になっていった。
「待って!」私は叫んだが、彼女の姿はすでになかった。
翌日、私は再びそのショップを訪れた。しかし、そこにあったのは、取り壊し予定の廃墟だった。近所の人に聞いても、そんなアンティークショップがあった記憶は誰も持っていなかった。
白磁のような肌をした娘。彼女は本当に存在したのか。それとも、深夜の銀座で迷子になった私の妄想だったのか。
答えは永遠に見つからないだろう。しかし、ミヨとの記憶は、現実とフィクションの境界線上で、永遠に生き続けるのだ。
それから数年後、私はパリの古書店で一冊の本を見つけた。タイトルは「白磁の時間」。著者名はなく、出版年も記されていなかった。
本を開くと、そこには見覚えのある顔が描かれていた。白磁のような肌をした娘。ミヨだった。
物語は、20世紀初頭のパリから現代の東京まで、時空を超えて存在し続ける不思議な娘の物語だった。そして最後のページには、こう記されていた。
「私はあなたの想像の中にしか存在しません。でも、それは私が存在しないということではありません。なぜなら、想像もまた、現実の一部なのですから」
私は本を胸に抱きしめた。ミヨは確かに存在した。この本の中に、私の記憶の中に、そして今もなお続く私の想像の中に。
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