ラスコーリニコフの非凡人論は、ドストエフスキーの小説『罪と罰』において中心的な思想の一つとして描かれています。この理論は、主人公ラスコーリニコフが自身の犯罪を正当化するために用いた考え方であり、人類を「凡人」と「非凡人」の二つのカテゴリーに分類するものです。以下、この非凡人論について詳細に論じていきます。

1. 非凡人論の概要

ラスコーリニコフの非凡人論の核心は、人類を二つの集団に分けることにあります。一つは大多数を占める「凡人」であり、もう一つは少数の「非凡人」です。

凡人:
- 社会の秩序を維持し、既存の法律や道徳に従う存在
- 新しいものを生み出す能力に乏しい
- 保守的で、変化を好まない

非凡人:
- 新しい思想や価値観を生み出す能力を持つ
- 必要であれば既存の法律や道徳を破る権利を持つ
- 人類の進歩に貢献する存在

2. 歴史的な「非凡人」の例

ラスコーリニコフは、自身の理論を説明する際に、歴史上の偉人たちを例に挙げます。例えば、ナポレオン・ボナパルトやイサク・ニュートンなどです。彼らは、既存の秩序や常識を打ち破り、新しい時代を切り開いた人物として描かれています。

ラスコーリニコフの観点からすれば、これらの「非凡人」たちは、その行動によって多くの犠牲者を出したとしても、最終的に人類に大きな利益をもたらしたため、その行為は正当化されるというわけです。

3. 非凡人の「権利」

非凡人論の最も論争的な部分は、非凡人には通常の道徳的・法的制約を超越する「権利」があるという主張です。ラスコーリニコフは、非凡人が自身の目的を達成するために、必要であれば人を殺すことさえ許されると考えています。

この「権利」は、非凡人が人類の進歩に貢献するという大義名分によって正当化されます。つまり、より大きな善のためには、小さな悪も許容されるという功利主義的な考え方が基礎にあります。

4. 自己認識と自己正当化

ラスコーリニコフは、自身を「非凡人」の一人だと信じ込もうとします。彼は、質屋の老婆を殺害することで、自分が本当に「非凡人」であるかどうかを試そうとしたのです。

しかし、この自己認識は極めて不安定なものでした。殺人を犯した後、ラスコーリニコフは深い罪悪感と恐怖に苛まれ、自身の理論の正当性に疑問を抱き始めます。

5. 社会批判としての非凡人論

ラスコーリニコフの非凡人論は、単なる犯罪の正当化を超えて、当時のロシア社会への批判としても解釈できます。19世紀のロシアは、急速な社会変革と西洋化の波にさらされており、旧来の価値観と新しい思想が激しく衝突していました。

非凡人論は、このような社会の中で、個人の価値と社会の秩序のバランスをどのように取るべきかという問題を提起しています。既存の秩序に従うべきか、それとも新しい価値観を打ち立てるべきか、という二者択一の問題です。

6. 非凡人論の倫理的問題

ラスコーリニコフの非凡人論には、多くの倫理的問題が含まれています。

- 人間の生命の価値の相対化:非凡人の目的のために、凡人の生命を犠牲にすることを正当化している。
- エリート主義:少数の「選ばれた者」に特別な権利を与えることで、人間の平等性を否定している。
- 目的と手段の問題:大きな目的のために、倫理的に問題のある手段を正当化している。

これらの問題点は、ラスコーリニコフ自身の内面的な葛藤を通じて、小説の中で批判的に描かれています。

7. 非凡人論の崩壊

物語が進むにつれ、ラスコーリニコフの非凡人論は徐々に崩壊していきます。彼は自身の罪の重さに押しつぶされ、理論の正当性を疑い始めます。特に、ソーニャとの交流を通じて、彼は人間の生命の尊さや、愛と贖罪の重要性を再認識していきます。

最終的に、ラスコーリニコフは自身の罪を告白し、刑務所に服役することを選びます。これは、彼が非凡人論を放棄し、通常の道徳的・法的秩序に従うことを選んだことを示しています。

8. 現代社会における非凡人論の意義

ラスコーリニコフの非凡人論は、19世紀のロシアを背景に生まれた思想ですが、現代社会にも通じる問題を提起しています。例えば、

- 個人の自由と社会の秩序のバランス
- イノベーションと倫理的配慮のジレンマ
- エリート主義と平等主義の対立

これらの問題は、現代社会においても常に議論の的となっており、ラスコーリニコフの非凡人論は、これらの問題を考える上で重要な視点を提供しています。

ラスコーリニコフの非凡人論は、単なる犯罪の正当化の論理を超えて、人間の価値、社会の秩序、倫理の本質に関する深い問いを投げかけています。それは、個人と社会、自由と責任、革新と伝統のバランスをどのように取るべきかという、永遠の哲学的問題に光を当てているのです。ドストエフスキーは、この理論とその崩壊のプロセスを通じて、人間の本質と社会の在り方について、読者に深い洞察を提供しているのです。



罪と罰 1 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー
光文社
2013-12-20



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