深夜2時、雨の音が窓を叩く。パソコンの青白い光に照らされた部屋で、私は原稿を書いていた。いや、書こうとしていた。画面は相変わらず真っ白だ。

「小説家になりたい」

その思いだけが、私を押し潰しそうな静寂から救っていた。しかし、アパートの壁は薄く、隣人の寝息さえ聞こえてくる。彼らの夢の中で、私の存在など微塵もないのだろう。

カーソルが点滅する。それは私の鼓動のように不規則だった。

突然、画面が暗転した。停電?いや、違う。文字が浮かび上がってきた。

『あなたは本当に小説家になりたいのですか?』

私は驚いて後ずさった。椅子がきしむ音が、異様に大きく響く。

「誰だ?」声に出して聞いてみる。返事はない。ただ、新たな文字が現れた。

『それなら、本当の物語を体験してみませんか?』

狂気の沙汰だ。でも、私の指は勝手に動いていた。

「はい」とタイプする。

画面が激しく明滅し、目が眩んだ。気がつくと、私は見知らぬ部屋にいた。壁には無数の本が並んでいる。それらは全て、私の名前が著者になっていた。

「これは…」

驚きに言葉を失っていると、背後から声がした。

「よく来たね、私の世界に」

振り返ると、そこには私自身がいた。いや、私に似た何かが。

「私は君の創造力さ。ここでは、君の全ての物語が現実になる」

私は戸惑いながらも、興奮を覚えた。これこそ、求めていたものだ。本棚から一冊を手に取る。表紙には『永遠の人魚姫』とある。

ページをめくった瞬間、海の匂いが鼻をつく。波の音が聞こえ、塩の味が唇に広がる。目の前には青い海が広がっていた。

「素晴らしい…」

しかし、喜びもつかの間。水中から巨大な触手が現れ、私を掴んだ。息ができない。溺れる。

「助けて!」

叫んだ瞬間、元の部屋に戻っていた。

「これが物語を生きるということさ」もう一人の私が言う。「でも、気をつけないと。物語は時に作者を飲み込むからね」

私は震える手で別の本を取る。『月光のワルツ』。開くと、優雅な音楽が流れ出した。豪華な舞踏会場。しかし、踊る人々の顔が溶け始める。恐怖に震える私。

次は『地下迷宮の秘宝』。暗闇の中、何かが私を追いかける。逃げ惑う。汗が噴き出す。

本を閉じるたびに部屋に戻される。しかし、現実と創作の境界が曖昧になっていく。どれが本当の私なのか、分からなくなる。

「もう十分だ」私は叫んだ。「元の世界に戻してくれ」

もう一人の私は不敵な笑みを浮かべる。

「残念だけど、それは君次第さ。本当の物語を書けるまで、ここから出られない」

パニックに陥る私。次々と本を開く。恐怖、悲しみ、怒り、喜び。感情が渦を巻く。現実が歪む。

「やめてくれ!」

叫びながら目を覚ました。真っ暗な部屋。パソコンの画面も消えている。夢だったのか。

安堵のため息をつく。しかし、目が慣れてくると、部屋中に本が散らばっているのが見えた。全て私の名前で書かれている。

恐る恐る一冊を手に取る。開くと、そこには今まさに体験した悪夢が細かく書かれていた。最後のページには、

『物語は終わらない。次はあなたの番です』

私は悲鳴を上げた。しかし、その声は誰にも届かなかった。私はもう、自分の創り出した物語の中に閉じ込められていたのだから。

カーソルが点滅する。新たな物語が始まろうとしていた。

(了)