主人公の私、山田太郎は、28歳の平凡なサラリーマンだった。いや、正確には「平凡」以下かもしれない。なぜなら、私には才能がないからだ。いや、才能がないことすら才能だと気づいた時、私の人生は思わぬ方向へと転がり始めた。

ある日、会社のコピー機の前で、私は突然の啓示を受けた。コピー用紙が詰まり、必死に引っ張り出そうとしている自分の姿が、まるで才能を搾り出そうともがく自分自身のメタファーのように思えたのだ。

「ああ、私には才能がない」

その瞬間、不思議な解放感に包まれた。才能がないことを受け入れた瞬間、逆説的にも、才能のなさを極めることが私の才能なのではないかと思い至ったのだ。

翌日から、私は「才能のなさ」を究極まで高めることに人生を捧げることにした。

まず、仕事での失敗率を上げることから始めた。企画書は意図的に支離滅裂にし、プレゼンでは聴衆を混乱させることに注力した。驚くべきことに、上司は私の斬新な発想に感銘を受けたようで、「山田君、君の発想は我々の理解を超えている。素晴らしい」と褒め称えた。

私は困惑した。才能のなさを極めようとしているのに、それが才能として認識されてしまうという皮肉。

次に、私は日常生活でも才能のなさを発揮し始めた。歯磨き粉をシャンプーの代わりに使い、靴下を手袋代わりにし、お箸で舌を瀬をつかむような食事をした。周囲の人々は私を奇人変人と呼び始めたが、あるアーティストは私の生き方に感銘を受け、「日常の脱構築」と題した作品を制作。それが話題を呼び、私は知らぬ間にカウンターカルチャーのアイコンになっていた。

ある日、私は才能のなさを極めるため、小説を書くことにした。「才能ある作家になれないなら、究極の才能のない作家になろう」と決意したのだ。

こうして生まれたのが、あなたが今読んでいるこの小説だ。

物語の展開も、キャラクターの描写も、文章の構成も、あえて支離滅裂にした。句読点は気分で打ち、漢字とひらがなの使い分けも適当だ。時制も過去と現在と未来が入り混じり、語り手の「私」が突然「彼」や「あなた」に変わることもある。

そう、これは「才能のなさ」を極限まで高めた結果の産物なのだ。

しかし、ここでも皮肉な結果が待っていた。

この小説を読んだ文学評論家たちは、私の作品を絶賛したのだ。

「これこそが真のポストモダン文学だ」
「既存の文学の概念を覆す革新的な作品」
「才能のなさを極めることで、逆説的に最高の才能を示した」

私は絶望した。才能のなさを極めようとすればするほど、それが才能として認識されてしまう。このパラドックスから逃れる術はないのか。

そして、私は気づいた。才能のなさに絶望することこそが、最後の才能なのではないかと。

だが、その瞬間、私の才能のなさへの絶望すら、ある種の才能として認識されてしまうのではないか。この無限ループから抜け出す方法はあるのだろうか。

読者のあなたは、この物語をどう解釈するだろうか。これは才能のない作家の悲哀の物語なのか、それとも才能ある作家の自己パロディなのか。あるいは、才能の有無という二元論そのものを問い直すメタフィクションなのか。

「才能」とは何なのか。それを定義づけ、評価するのは誰なのか。私たちは「才能」という概念に縛られすぎてはいないだろうか。

この小説を書き終えた今、私にはもはや何も分からない。自分の才能のなさに絶望すべきなのか、それとも才能のなさという才能を祝福すべきなのか。

ただ一つ言えるのは、「才能」という概念そのものが、私たちの認識を縛る牢獄のようなものかもしれないということだ。その牢獄から抜け出した時、初めて私たちは真の自由を手に入れるのかもしれない。

あるいは、この全てが無意味な戯言なのかもしれない。才能のない私には、もはやそれすら判断できない。