彼の名前は田中太郎。いや、山田花子かもしれない。あるいは鈴木一郎。結局のところ、名前など重要ではない。30年間、恋愛とは無縁に生きてきた「彼」がいる。それだけが事実だ。

「恋愛経験ゼロです」と履歴書に書けたらどんなに楽だろう。しかし、そんな欄はない。社会は恋愛を当たり前のものとして扱う。だが、彼にとって恋愛は、遠い異国の風景のようなものだった。

鏡を見る。30歳の顔がそこにある。しわひとつない。喜ぶべきか。悲しむべきか。感情の起伏を知らない顔。恋に落ちたことのない顔。

電車の中。隣に座る女性の香水の匂いが鼻をくすぐる。ふと目が合う。彼女が微笑む。彼は慌てて目をそらす。心臓が早鐘を打つ。これが恋?いや、ただの動悸だ。

会社の飲み会。「彼女いないの?」先輩が尋ねる。「いません」と答える。「まだ」という言葉を付け加えるべきだったか。しかし、「まだ」は希望を匂わせる。希望など持ち合わせていない。

街を歩く。カップルであふれている。手をつなぎ、笑い合う。彼らは別の惑星の生き物のように見える。彼は火星人か。それとも彼らが地球外生命体なのか。

本屋に立ち寄る。「恋愛入門」なる本が平積みされている。手に取ってみる。「まずは自分を好きになること」そう書いてある。30年かけても、それすらできていない。

夢を見た。誰かと手をつないでいる。顔は見えない。でも、確かに誰かがいる。温もりを感じる。目が覚める。枕を抱きしめていた。悲しいのか、ほっとしたのか。

マッチングアプリをインストールする。プロフィールを作成しようとする。趣味は?特技は?自分の魅力は?画面を見つめること30分。何も書けない。アプリを削除する。

友人の結婚式。彼を除いて独身は誰もいない。ブーケトスが始まる。慌てて席を外す。トイレで深呼吸。鏡の中の自分が哀れに見える。

実家に帰省。「まだ彼女はできないの?」母が心配そうに尋ねる。「大丈夫だよ」と答える。誰が大丈夫なのか。母か、自分か。それとも、この状況か。

職場の後輩が恋愛相談をしてくる。「先輩はどう思いますか?」唖然とする。なぜ自分に聞く。答えられるはずがない。「自分の心に正直に」とでも言えばいいのか。

歯医者で麻酔をかけられる。「恋をしたときのような、ふわふわした感じがしますよ」歯科医が言う。麻酔が効いてきた。ふわふわする。これが恋なのか。虚しい。

深夜、コンビニでアイスクリームを買う。レジの店員が「お幸せに」と言う。思わず振り返る。後ろにカップルがいた。自分への言葉ではなかった。当たり前だ。

会社の健康診断。問診票に「パートナーはいますか?」という項目がある。「いいえ」にチェック。隣の先輩がちらりと覗き込む。憐れむような目。いや、気のせいか。

誕生日。LINE通知が鳴る。「おめでとう」の嵐。でも、誰一人電話をかけてこない。声が聞きたい。温もりが欲しい。ケーキを一人で食べる。甘すぎる。

年末。テレビで「恋人がサンタクロース」が流れる。チャンネルを変える。別の局でも恋愛ドラマ。テレビを消す。静寂が部屋に満ちる。

初詣。おみくじを引く。「恋愛運:大吉」笑ってしまう。この神様、きっと彼をからかっている。おみくじを結ぶ。願いは、もう恋なんて考えないこと。

春。桜が咲く。ベンチに座る。隣でカップルが寄り添う。「来年は二人で来よう」そう言っている。彼は立ち上がる。桜吹雪が頬をなでる。冷たい。

30歳の誕生日。鏡を見る。変わらない顔。変わらない人生。ふと思う。恋をしないことが、自分の個性なのかもしれない。そう思った瞬間、少し肩の力が抜けた。


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