朝霧の立ち込める大学キャンパス。言葉学科の教授たちが、いつものように奇妙な一日を始めようとしていた。

デリダ教授は、毎朝、研究室の扉に貼られた「入口」の文字を眺めていた。「入口とは何か?」と彼は呟く。「出口の反対なのか、それとも別の入口への入口なのか」。彼は肩をすくめ、扉を開けた。

バトラー准教授は、今日のレクチャーの準備に追われていた。「代名詞の政治学」と題された講義で、彼女は「私」という言葼を二時間使わずに話すことを企画していた。

隣の研究室では、ドゥルーズ教授が机の引き出しを開けたり閉めたりしていた。「開くことは閉じることであり、閉じることは開くことである」と彼は独り言を繰り返していた。

講堂に向かう途中、ボードリヤール教授が立ち止まった。自動販売機の前で「コーラ」と「ペプシ」のボタンを交互に押している。「違いがあるのかないのか、それが問題だ」と彼は真剜な顔で呟いた。

図書館では、フーコー教授が本を探していた。しかし、彼が探しているのは本ではなく、本と本の間の空間だった。「知識の間隙にこそ、真理がある」と彼は信じていた。

キャンパスの中庭では、リオタール教授が学生たちにフリスビーを投げていた。「大きな物語は終わった」と彼は叫ぶ。「小さな円盤の軌道こそが、新しい思想だ」。

カフェテリアでは、ジジェク教授がホットドッグを注文していた。「ケチャップとマスタードの弁証法的統合を」と彼は注文し、困惑した店員を見て楽しんでいた。

夕方のセミナールームで、バルト教授が「テキストの死」について熱弁を振るっていた。「著者は死んだ」と彼が宣言すると、学生たちは困惑した表情で「では、誰がレポートを採点するのですか?」と尋ねた。

夜の教授会では、サルトル学部長が存在と無の狭間で揺れ動いていた。「我々は自由だ」と彼は宣言する。「しかし、その自由は我々を拘束する」。教授たちは頷きながら、誰も本当の意味を理解していなかった。

深夜、キャンパスを歩くベンヤミン警備員。彼は、建物の影に潜む「アウラ」を探していた。しかし、見つけたのは落ちていた学生証ばかり。

夜明け前、ニーチェ体育館のトレーニングルームで、筋トレに励むカミュ教授。「シーシュポスは幸福でなければならない」と彼は呟きながら、永遠に重りを持ち上げ続ける。

そして新しい朝が来た。言葉学科の教授たちは再び、言葉という迷宮に迷い込んでいく。彼らは真理を探求するふりをしながら、実は言葉遊びを楽しんでいるのかもしれない。

デリダは再び「入口」の文字を眺め、バトラーは新しい代名詞のパフォーマンスを準備し、ドゥルーズは引き出しを開閉し続ける。

ボードリヤールは自動販売機の前で思索し、フーコーは本の間の空間を探り続ける。リオタールはフリスビーを投げ、ジジェクは店員を困惑させ続ける。

彼らは皆、言葉という不確かな乗り物に身を委ね、意味の海原を漂流していく。真理という幻の島を目指して、あるいは、ただ漂流すること自体を楽しみながら。

そして、彼らの言葉遊びは続く。意味を解体し、再構築し、捻じ曲げ、拡張する。彼らにとって、哲学とは究極の言葉遊びなのだ。真面目な顔をして、しかし心の中では愉快に笑いながら。

夜が明け、新たな一日が始まる。哲学者たちは、また新しい言葉遊びの冒険に出かけていく。彼らの遊びに終わりはない。なぜなら、言葉という迷宮に出口などないのだから。



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牛野小雪
2023-10-25