光源氏は鏡の前に立っていた。その姿は千年の時を超えて理想化され続けてきた貴公子のそれだった。しかし、彼の目は下へ、さらに下へと移動し、ついに彼の視線は自らのすねに釘付けになった。

そこには、紛れもない現実があった。すね毛だ。

(これは夢なのか、現実なのか)

彼は目を瞑り、再び開く。しかし、すね毛は消えない。むしろ、より鮮明に、より存在感を増して、そこにあった。

光源氏は思わず吐き出した。「これはいかなることか」

その瞬間、鏡の中の光源氏が口を開いた。「いかなることも何も、それがお前の現実だ」

光源氏は驚愕した。鏡の中の自分が語りかけてくるなど、かつて経験したことがない。しかし、この驚きは束の間のものだった。なぜなら、すね毛の存在の方が、遥かに衝撃的だったからだ。

「だが、私はかくあるべきではない」光源氏は鏡の中の自分に語りかけた。

鏡の中の光源氏は皮肉な笑みを浮かべた。「かくあるべき姿など、誰が決めた?」

この問いかけに、光源氏は答えられなかった。彼の中で、何かが崩れ始めていた。

その時、部屋の隅から声がした。「殿下、朝餉の準備が整いました」

現実世界からの呼びかけに、光源氏は我に返った。しかし、すね毛は消えない。

「少々待て」光源氏は答えた。その声には、かつてない動揺が滲んでいた。

彼は再び鏡を見つめた。鏡の中の光源氏はもう語りかけてこない。そこにあるのは、すね毛の生えた自分の姿だけだ。

(これをどう隠そう)

その瞬間、彼は気づいた。なぜ隠さねばならないのか? その問いは、彼の存在の根幹を揺るがした。

光源氏は決意した。このまま出仕しよう。すね毛をさらけ出したまま。

彼が部屋を出ると、侍女たちが驚愕の表情を浮かべた。しかし、光源氏は動じなかった。

「何か問題でも?」彼は問うた。

侍女たちは答えられず、ただ目を伏せるだけだった。

光源氏は歩を進めた。廊下を行き交う人々が、彼のすね毛に気づき、驚きの声を上げる。しかし、彼は止まらない。

朝餉の間に到着すると、そこにいた貴族たちが一斉に彼を見つめた。沈黙が場を支配する。

「おや、皆様。何かご様子が違いますね」光源氏は、あえて普段と変わらぬ口調で語りかけた。

誰も答えない。皆、彼のすねに視線を送っているだけだ。

そのとき、一人の若い貴族が声を上げた。「光源氏様、そのすね毛...素晴らしい」

場の空気が一変した。まるで魔法がかけられたかのように、皆が口々にすね毛を褒め始めた。

「なんと男らしいことか」
「これぞ真の美男子」
「我らもすね毛を生やすべきか」

光源氏は内心で笑った。(なんと滑稽な)

しかし、彼は表情を変えずに応じた。「いやいや、これは当然のことです」

その日から、宮中ですね毛を生やす風潮が広まった。かつては美の象徴だった無毛の肌が、今や時代遅れのものとされる。

光源氏は自室に戻り、再び鏡の前に立った。鏡の中の光源氏が語りかけてきた。

「お前は何を学んだ?」

光源氏は答えた。「美とは、権力とは、そして現実とは、全て脆いものだということを」

鏡の中の光源氏は満足げに頷いた。そして、消えていった。

光源氏は独り、すね毛を見つめた。それは彼の新たなアイデンティティの象徴だった。

彼は思った。(これが現実なのか、それとも夢なのか。それとも、現実と夢の境界など、元々存在しなかったのか)

光源氏は微笑んだ。彼はようやく自由を手に入れたのかもしれない。すね毛という、小さくも大きな革命を通じて。

そして彼は、新たな物語へと歩み出した。すね毛の生えた光源氏の物語を、誰が語り継ぐだろうか。それとも、この物語自体が幻想なのだろうか。