『貝に続く場所にて』は、東日本大震災から9年後、コロナ禍のドイツの古都ゲッティンゲンを舞台に、震災で行方不明となった後輩・野宮が突如現れることから始まる物語です。主人公は震災の記憶を避けるように生きてきましたが、野宮の出現により、失われた記憶の断片がよみがえってきます。
作品には複雑に絡み合う様々なモチーフが登場します。惑星の小径というゲッティンゲンの太陽系縮小モデル、聖人の名を持つ女性たち、トリュフ犬、かつてこの地に滞在した寺田寅彦と夏目漱石など、これらが記憶や過去を巡る旅の導き手となっています。
物語の鍵を握るのが、9番目の準惑星から外れた冥王星です。冥王星は海王星の内側に入り込む特殊な軌道を描きますが、これは主人公の記憶の揺らぎと呼応しているかのようです。また、貝は聖ヤコブのシンボルであり、巡礼と深い関わりを持ちます。野宮はこの聖地に現れた亡者の象徴とも捉えられます。
文体は錯綜としており、一読では理解が難しいかもしれません。感情を直接言葉にするのではなく、暗示的で詩的な表現が多用されています。震災やホロコーストといった悲劇的な出来事を安易に「文学」の題材にすることへの違和感を覚える読者もいるでしょう。
しかし、この作品が織りなす言葉の綾、時空を超えた奥行きと距離感は見事です。一つ一つの場面には息をのむような美しい描写が散りばめられ、ラストの巡礼シーンは圧巻です。読者を異世界へいざなう文学的イリュージョンは、著者の類稀なる才能を証明しています。
『貝に続く場所にて』は、震災という国民的トラウマに、文学を通して新たな光を当てた意欲作です。記憶と向き合い、悲しみを乗り越えていくためのヒントが随所に隠されています。難解な文体に躓きながらも、再読の価値は十分にあるでしょう。恩田陸の真摯な文学への姿勢と技巧は、日本文壇に新風を吹き込む存在と言えます。
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