市川沙央氏の小説「ハンチバック」は、身体障害を抱える主人公・釈華の内面世界と、言葉を通じた自己表現の試みを描いた作品であり、2023年上半期の芥川賞を受賞した。先天性ミオパチーによる症候性側彎症を患う作者自身の経験が色濃く反映されており、健常者には想像し難い苦悩や葛藤が赤裸々に綴られている。
物語は、釈華が両親から受け継いだグループホームの自室を舞台に展開する。彼女は、自らの障害ゆえに経験することのできない妊娠・出産への強い憧れを抱いており、過激な言葉で「中絶がしてみたい」という衝撃的な願望を吐露する。この一見不謹慎とも取れる発言の裏には、健常者社会から疎外され、性的存在としても認められない釈華の痛切な叫びが込められている。
作中では、介助者の田中との性的な関係も描かれる。それは単なる欲望のぶつかり合いではなく、釈華が自らの「清らかさ」を捨て去り、生身の人間として傷つくことで、自身の存在意義を見出そうとする行為でもあった。彼女は自らを「ハンチバックの怪物」と称しながらも、そのような身体で生きる尊厳を必死に主張しているのだ。
読者は、この作品を通して、障害者が直面する困難と、それに立ち向かう強さと脆さを目の当たりにする。特に、釈華が言葉を通じて自己実現を目指す過程は、現代社会におけるコミュニケーションの問題を浮き彫りにしている。彼女の文章が他者にどのように受け止められ、その反応が彼女にどのような影響を与えるのか、といった点は示唆に富んでいる。
また、作品では「紙の本」に対する釈華の複雑な感情も描かれる。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること──これら5つの健常性を満たすことを要求する読書文化を、彼女は「マチズモ(健常者優位主義)」と呼び、強く憎悪する。電子書籍の存在は、そうした釈華の葛藤を浮き彫りにする一方で、出版流通の問題点も示唆している。
「ハンチバック」は、私たち健常者に問いかける。障害者の抱える怒りや痛みに寄り添うことは可能なのか、そもそも本当の意味で理解することができるのか。そして、「できること」と「不能なこと」のバランスにどのような価値を見出すべきなのか。読後に残るのは、そうした重い問いと、釈華の言葉が放つ強烈なパワーである。
洗練された文体と深い洞察力を備えたこの作品は、現代文学の新たな地平を切り開いたと言えるだろう。私たち読者は、釈華の叫びに耳を傾け、自らの価値観を問い直すことを求められている。「ハンチバック」は、そのような覚悟を持って挑むべき、稀有な問題作なのである。
(おわり)
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