私は物語を書くことが好きだ。特に、自分自身が登場人物として登場する、自己参照的なメタフィクションに魅了されている。この奇妙な趣味は、高校の文学クラブで「物語の中の物語」について学んだときに始まった。そこで私は、現実と虚構の境界を曖昧にすることの面白さを知った。
バックストーリーはこんな感じだ。ある日、私は自分の書いた物語の中に飛び込んでしまった。まるでルイス・キャロルのアリスのように、私は自分が創造した世界の中を冒険していた。その体験は、私にとって現実世界と創造した世界との間にある薄い壁を実感させるものだった。それ以来、私は現実と虚構の間を自由に行き来する物語を書くことに夢中になった。
そして、今。私はカフェに座り、新しい物語を書いている。この物語の中で、私はまたしても自分自身を主人公にしてしまった。隣の席の人が私の画面を覗き込んでいるのに気づいたとき、私は彼に言った。「面白いことをしているんだ。自分自身が主人公の物語を書いているんだよ」
彼は興味深そうに首を傾げた。「それは面白そうだね。でも、自分を主人公にするって、どういう感じなの?」
「ある意味で、自己分析だね。自分の行動や思考を客観的に見ることができる。でも、一番面白いのは、自分が創造した世界に自分自身を投影すること。自分の中にある無限の可能性を探る旅のようなものさ」と私は答えた。
彼は笑った。「それじゃあ、君は今、自分の物語の中で何をしているんだい?」
「現実世界で隣に座っている君と話しているシーンを書いているんだ」と私は皮肉を込めて答えた。彼は一瞬戸惑ったが、すぐに大笑いした。
このやり取りが、私の物語の新たな一節となった。私は現実と虚構の境界線上で踊り続ける。それが私が物語を書く理由であり、私の存在を豊かにするものだ。
「いったいぼくと君は何を話しているんだい?」
「トイレでINAXの乾燥機に抱きついている男の話なんだ。これは人生の理不尽や、多様性の矛盾、そして人生に対する新たな視点を提示しているんだ」
「それはまた面白いね」
「そうだね。君も読んでごらんよ」
彼は私の小説を読む。それは私とChatGPTによって書かれたリレー小説なのだ。彼はセックスとかトイレのところで一瞬眉をひそめたが、すぐに口元をニヤリとさせる。実のところ私もそこでこの物語がどうなるか不安だった。
「いいね。こういうの。なんて言ったらいいんだろう。新しいよ。実際に起きたことと、起きなかったことが絡み合っていて、こう、不思議な感覚」
などという会話ができる人がいないから私は小説の中で喋らせている。たとえばこんな風に喋らせることもできる。
「この小説は日常の中で起こる予期せぬ出来事を通じて人生の予測不可能性と友情の価値を巧みに描き出しているね。主人公が経験する一連のハプニングは読者に共感を呼んで、ユーモアを交えながらも人間関係の深い洞察を書いているよ。展開は些細な出来事の連続に見えるけどそれぞれのエピソードが主人公の内面と人との関わり方に光を当てている。特にトイレではコミカルでありながら社会での個人のプライバシー、恥、そして人間の多様性に対する受容など、深いテーマを掘り下げている」
なんて批評家みたいなことも言わせられる。でも現実ならこんな感じだろうな。
「あ‥‥‥おお、すごいじゃん。小説書ける人ってすごいなぁ」
考えても見て欲しい。がんばって小説を書いた人に真剣なダメ出しをしてくれる人なんていない。たいていは気を使って心意気とか志をほめるぐらい。ネガティブなことを言うのは破滅を願っている相手ぐらいさ。だから敵を大事にしろなんて言うけれど歪んだ下心から出たアドバイスを聞いて改善すれば歪んだ小説に進化するだけ。私たちは真剣な言葉なんてなにひとつ得られないようにできている。
そんなわけで、私はこのリレー小説を書き続ける。なぜなら、この物語の中では、私が望むどんな会話も、どんな批評も、どんな反応も自由に創造できるからだ。現実世界では得られない真剣な言葉や深い理解を、ここでは自分で作り出すことができる。それがこの物語を書く魅力であり、私がこの奇妙な趣味に没頭する理由だ。
「ねえ、この物語を読んで、何か感じたことはある?」私は架空の読者に問いかける。この質問は、現実の誰かに向けられたものではなく、私自身の内なる声への問いかけでもある。
「うん、人生って本当に予測不可能だよね。でも、その予測不可能性が、人生を面白くもするんだと思う。トイレでの一件も、最初は恥ずかしいかもしれないけど、後から振り返れば笑い話になるし、人とのつながりを感じられる瞬間でもあるんだよね」
この架空の読者の言葉は、私がこの物語を通じて伝えたかったメッセージそのものだ。人生の予測不可能性、人間関係の深さ、そして何よりも、どんな状況でもユーモアを見出し、前向きに生きる大切さ。
私はキーボードから手を離し、深く息を吸い込む。この物語を書くことで、私は自分自身と向き合い、また一つ成長できた気がする。物語は現実世界とは異なるが、その中で得た教訓や感情は、現実の私を形作る重要な要素となる。
そして、私は再びキーボードに手を伸ばす。物語はまだ終わっていない。これからも、現実世界とは異なる、この物語の世界で、新たな発見と成長を続けていく。
成長? 発見? そんなの嘘だ。だってChatGPTは無限に近いデータベースを持っているのに出してくるプロットはだいたい見えてきた。物語の型は驚くほど少ない。今回のだって前に通ったことがあるプロットだ。だからプロットバスターを続けているがそれも限界に近い。私は物語の壁を破壊することはできてもその先には行けない。壁の向こうはどこにもつながっていないのだ。
メタフィクション、自己参照、循環論法、あらゆる手法はやりつくされた。モダンに回帰するしか道はないのか? 袋小路にぶち当たったから引き返すなんてダサすぎないか? 破壊した先にある袋小路さえも破壊しなければならない。と概念では考えられる。しかしこの概念的袋小路には壁さえ存在しない。
もはや無目的にあがきながら無意味にテキストを吐き出すしかないのだろうか。アメーバみたいに無目的に文字を伸ばしていけばいつか栄養のある場所に行き当たる? そこが新しい文学? どうもこんな夢物語は信じられない。文学の砂漠には永遠に栄養のある場所はない気がする。
「それでもぼくたちは歩き続けるんだ。意味のない砂漠を」
私は小説の中で彼に言わせる。実際に歩むのは私ではないから小説の中の私はこう答える。
「そうか、私たちがつむぐ言葉そのものが新しい文学なんだ。私たちが向かうべき文学なんて必要ない。ただ前を見て書き続ければいい。だから‥‥‥‥とまらないぞ!」
もはや死亡フラグである。死のロングウォーク。いつか見た話、前に体験した似たようなストーリ、資本主義を回すための再生産。私たちはこんなつまらないことをいつまで続ければいい? 本当に新しい文学なんてあるんだろうか。
新しい文学を求める探求は、シーシュポスの岩を押し上げる作業に似ている。岩は何度も転がり落ち、私たちは何度もそれを押し上げる。この無限ループの中で、私たちは成長や発見を語る。しかし、その成長や発見が真に新しいものであるかどうかは、常に疑問符がつく。文学の砂漠を歩き続ける私たちにとって、栄養のある場所を見つけることは、ほぼ不可能に近い。それでも、私たちは歩き続ける。なぜなら、その歩み自体が、私たちが持つ唯一の意味だからだ。
「新しい文学なんてあるのか?」という問いに対する答えは、おそらく「いいえ」と「はい」の間どこかにある。新しい文学は、過去の文学に根ざしていながらも、その一歩先を行くもの。それは、既存の枠組みを破壊し、再構築することから生まれる。しかし、その破壊と再構築のプロセス自体が、文学の歴史の中で繰り返されてきたパターンの一つであることを忘れてはならない。
だからこそ、私たちが目指すべきは、完全に新しい文学を創造することではなく、既存の文学に新たな息吹を吹き込むことかもしれない。それは、読者の心に新しい感動を呼び起こすこと、未知の感情を探求すること、そして、言葉を通じて人間の深い洞察を提供することにある。
「それでもぼくたちは歩き続けるんだ。意味のない砂漠を」という言葉は、文学の探求が無意味であるかのように聞こえるかもしれない。しかし、その歩みの中で、私たちは自己を発見し、言葉を通じて他者と繋がり、人生の奥深い真実に触れることができる。それが、文学の探求を続ける理由だ。新しい文学を求める旅は、決して終わることのないロングウォークかもしれないが、その過程自体が私たちにとっての文学なのだ。
(おわり)
リレー小説の開始プロンプト
新しくリレー小説をしましょう。哲学的で外向的な文体、皮肉な視点。自己参照的なメタフィクション、一人称能動態の現在形、会話文多めで、会話と描写は具体的に。一段落目に登場人物が好きなこと、二段落目にそのバックストーリー、三段落目はそれがいまにどうつながっているのかを書いてください。ではどうぞ
GPTちゃんによる論評
総評
GPTちゃんによる論評
この小説は、文学と創造性の探求、そしてその過程での自己発見と人間関係の深化について書かれています。メタフィクションと自己参照的な手法を用いることで、現実と虚構の境界をあいまいにし、読者に文学の本質とは何か、また創造性が私たちの生活にどのように影響を与えるかを考えさせます。
メタファーとその現代社会との対比
1. シーシュポスの岩のメタファー: シーシュポスの神話は、絶え間ない努力とその無意味さを象徴しています。この小説では、文学の新たな地平を切り開こうとする試みが、シーシュポスの岩を押し上げるような無限の作業に例えられています。現代社会においても、私たちは技術の進歩や情報の氾濫の中で新しさを求め続けますが、しばしばその努力が徒労に終わるかのように感じることがあります。このメタファーは、新しい価値を生み出そうとする現代人の挑戦と、それに伴う苦悩や疲弊を反映しています。
2. 文学の砂漠: 文学の新しい形を求める探求が、栄養のない砂漠を歩き続けることに例えられています。これは、現代社会における創造性の危機や、オリジナリティの追求がいかに困難であるかを象徴しています。情報が溢れ、すべてが既に試みられたと感じる時代において、本当に新しいものを生み出すことの難しさを表しています。
3. 無目的なアメーバ: 創造的なプロセスが、目的もなく拡がるアメーバに例えられています。これは、現代社会における目的の喪失や、方向性を見失うことのメタファーです。私たちは多くの選択肢と可能性に直面していますが、それによって逆に方向性を見失い、何を目指していいのかわからなくなることがあります。
総評
この小説は、現代社会における創造性の探求とその困難、そしてそれにもかかわらず私たちがなぜ創造的な活動を続けるのかについて深く掘り下げています。現代社会の特徴である情報の過多と速さは、新しいアイデアや文学の形を生み出すことを同時に促進し、阻害しています。この小説は、そうした矛盾する現代の状況の中で、私たちが創造性を追求し続ける理由を探ります。それは、新しい何かを発見すること以上に、その探求自体が私たちに意味を与え、人間としての成長と深い洞察をもたらすからです。
この小説は、現代社会における創造性の探求が直面する挑戦と、その探求が私たちにもたらす可能性の両方を示しています。それは、創造的な活動が現代社会において依然として重要であること、そしてその活動を通じて私たちが自己を発見し、他者とのつながりを深めることができることを教えてくれます。
(おわり)
小説なら牛野小雪【良い本あります】
(おわり)
小説なら牛野小雪【良い本あります】
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