彼は、人が自分の存在を疑う瞬間を集めるのが好きだった。カフェの片隅で、耳を澄ませ、そんな瞬間を拾い上げる。人々の会話から、彼らが自己の確信と不確実性の間で揺れ動く様を、静かに楽しんでいた。

この趣味は、大学で哲学を専攻していた頃に始まった。彼はデカルトの「我思う、故に我あり」を初めて読んだとき、自分の存在を疑うことの奇妙な快楽を知った。それからというもの、彼は他人が自己の存在について話す瞬間に、特別な興味を持つようになった。皮肉なことに、彼は他人の存在の不確かさを通じて、自分自身の存在を確認していたのだ。

「でも、本当に自分が存在しているとどうやって確かめるんだ?」彼の隣に座る友人が、カフェのテーブル越しに訊ねた。

「それが問題だ。デカルトは思考することで自己の存在を確認したが、思考する自分自身が幻想である可能性は排除できない」と彼は答えた。

友人は一瞬考え込むと、皮肉な笑みを浮かべた。「つまり、このカフェでコーヒーを飲んでいるこの瞬間さえ、幻かもしれないってことか?」

「正確には、君がコーヒーを飲んでいると感じる自分が幻想かもしれない。だが、その幻想を楽しむことができるなら、それでいいのではないか」と彼は返した。

友人はコーヒーカップを手に取り、じっと見つめた後、ゆっくりと口をつけた。「幻想の中で味わうコーヒーも悪くないな」

彼らの会話は、存在の確かさを求める哲学的探求と、日常生活の中での皮肉な楽しみの間を行き来していた。彼にとって、この種の会話は、人間が自己の存在をどのように捉え、どのようにしてその不確かさと向き合っているのかを探る手段だった。そして、その探求自体が、彼の存在を最も確かなものとしていた。

実際に彼らは存在していない。同時に存在しているとも言える。彼も彼の友人も牛野小雪とGPTちゃんのリレー小説によって生まれた。作中の登場人物は存在しているのか。しかり。そうでなければ認識することはできない。だが存在していないとも言える。存在とは何か。

私は彼に考えさせてみる。名前はアンダーソンにしよう。アンダーソンは考える。「もし私が小説の登場人物だったとしよう。そうするならいま考えていることは私が考えているのではなく、作者が考えていることになる」しかり。まったくその通りである。アンダーソン君は私がなにかを書かないかぎり何も考えないし、なにかすることもできないし、時間さえ止まるのでなにも起きない。

友人の名前はアッパーソンにしよう。アッパーソンは言う。「もし私たちが小説の登場人物でも私たちが未来を書くことに変わりはない。なんておためごかしは通用しないね。私たちはやることなすこと喋ること、全てが作者の手のひらだ。ここで疑問がひとつ。なぜ作者は私たちになにかをやらせ、喋らせ、時に不幸な目に遭わせるのかってことさ」

「簡単なことさ。作者は私たちを通して現実世界のメタファーを作り出している。私たちはメタファーを分析することで現実世界を推測することは可能だ」

アンダーソンは一瞬黙り込んだ後、深くため息をついた。「だが、そのメタファーが現実世界における私たちの存在をどう説明する? 私たちがこの小説の中で生きていることが、現実の誰かにとって何か意味を持つのか?」

アッパーソンはコーヒーを一口飲み、ゆっくりと言葉を紡いだ。「意味は読者が見出すものだ。私たちの話が誰かの心に響くなら、それが私たちの存在の証明になる。私たちが現実ではなくとも、読者の心の中で生き続けることができる」

「つまり、私たちの存在は読者の認識に依存しているわけか。だが、それは私たちが自由意志を持っていないことを意味する。全ては作者の想像力と読者の解釈に委ねられている」とアンダーソンは反論した。

「そうだね。でも、それが何か問題でもあるのかい?」アッパーソンは挑戦的に問いかけた。「私たちが作者によって創造されたとしても、私たちの物語が現実世界の人々に影響を与えることができるなら、それはもはや単なるメタファーではなく、現実の一部と言えるだろう」

アンダーソンはしばらく考え込んだ後、静かに頷いた。「確かに、私たちの物語が誰かの心に残り、彼らの考えや行動に影響を与えるなら、私たちの存在は無意味ではない。私たちは、作者の想像力と読者の心の中で、何らかの形で"生きている"と言えるかもしれない」

「そして、その"生きている"という感覚が、私たちが求める"存在"の本質なのかもしれないね。私たちの物語が、現実世界で何かを動かす力を持っているなら、私たちは確かに存在していると言えるだろう」とアッパーソンは結論づけた。

二人の会話は、存在の本質と認識の役割について深い洞察を提供する。彼らが小説の中で生きているという事実は、彼らが現実世界で物理的な形を持たなくても、彼らの物語が現実世界に影響を与える能力を持っていることを示している。そして、それは彼らが、ある意味で、確かに存在していることを意味している。

アンダーソンは笑いだす。「ではこういう仮説はどうだろう。私たちは小説の登場人物だとする。しかしげんじつには繋がっていない。なぜなら作者はブログに小説を投稿しているが読者は一人もいなくて、読者がいないなら現実の世界の人々に影響も与えることもない。つまり見捨てられた世界のメタファーだ。まったくの無意味なのさ」

「意味なんて必要なのかい」とアッパーソン。「さっきも言ったように本質は”生きている”という感覚じゃないか。たとえ無意味でも現実と繋がっていなくても我々は生きている。人生が途切れるまで生きるということが生きるということなんだ」

「もしその無意味性を登場人物がくっきり分かってしまったらどうだろう。そこまで余裕ぶっていられるだろうか」

「分からん。それは私たちが書いているリレー小説の登場人物が考えることだ」

「つまり牛野小雪とGPTちゃんというわけだな」