雨の日が嫌いな郵便配達員の松本は、濡れた道を自転車で走りながら、今日もまた不満を漏らしていた。
「また雨か。この仕事、晴れの日ばかりだったらなぁ」
彼は自転車のハンドルをしっかり握りながら、ぼやいた。雨粒が彼のメガネを濡らし、視界を曇らせていた。
「松本さん、大丈夫ですか?」と、同僚の佐々木が心配そうに声をかける。
「ああ、なんとかね。でも、この雨じゃ配達に時間がかかるよ」
「気をつけてくださいね。雨の日は事故も多いですから」
松本は頷き、再び自転車を漕ぎ始める。彼の配達ルートは、狭い路地や坂道が多く、雨の日は特に厄介だった。
彼が一軒の家の前に到着すると、玄関を開けたのは小さな女の子だった。
「おじさん、雨の中ありがとう!」女の子は明るく言い、松本に手紙を受け取る。
「どういたしまして。雨の中でも、君たちの笑顔があればね」
松本は女の子の笑顔に心が温まり、雨の不快感が少し和らいだ。
配達を続ける松本は、雨に濡れながらも、受け取る人々の感謝の言葉に少しずつ心が満たされていく。雨の日が嫌いだった彼だが、その日の配達を終えた時、彼の心には小さな変化が訪れていた。
松本は起こらなかったこと思い出で心を保つ。実際は感謝なんてない。もし感情的な交流なんてものがあるとしたら怒りのクレームぐらいしかない。人と人との交流を松本は求めていない。それはいつも彼を傷付ける。
「俺の相棒は俺だけさ」
松本は自転車を漕ぐ。電動アシスト付きなので風が吹いても軽々と地面を滑るように進む。次の配達先。玄関のチャイムを鳴らす。
「ありがとうございます」
出てきたのは有閑な雰囲気をまとった女性だ。若さと住んでいる家の豪華さが釣り合わない。普通の過程ではないのがうかがえる。
「雨の中たいへんですね」
「これも仕事ですから」
「中に入って紅茶でも飲みません? タオルもありますからそれで雨をお拭きになったら?」
「では、お言葉に甘えて」
松本は落ち着いた木の匂いがする家の中に入る。女性は逆に玄関に降りて鍵を閉める。松本が振り返ると彼女は笑っている。
「なぜ鍵を閉めるんですか?」
「だれかが入ってくるといけないから」
松本はこれから起こるドラマを予感してドキドキする。
女性は松本をリビングへと案内し、彼にソファに座るよう促した。部屋は上品で落ち着いた雰囲気で、外の雨音が心地よく響いていた。
「少々お待ちくださいね」
女性はキッチンへ向かい、松本はソファに座りながら周囲を見渡す。彼は人と深く関わることを避けていたが、この静かで暖かい空間には心が和むものがあった。
やがて女性が紅茶とクッキーをトレイに乗せて運んできた。彼女は松本の前にトレイを置き、自らも向かいのソファに座った。
「お疲れ様です。雨の中、本当にありがとうございます」
女性の言葉に、松本は少し緊張をほぐし、「いえ、これも仕事のうちですから」と返した。
二人は紅茶を飲みながら、窓の外を打つ雨音を聞いていた。会話は少なかったが、その静けさが心地よいものだった。
「雨の日はいつもこんな感じですか?」女性が静かに尋ねる。
「ええ、だいたいこんなものです。人との交流は少ないですね」
「それは寂しくないですか?」
松本は少し考えた後、「人と深く関わると、いつも傷つくんです。だから、こんなふうに自分の世界に閉じこもる方が楽なんです」と正直に答えた。
女性は優しく微笑み、「でも、たまにはこうして誰かと紅茶を飲むのも悪くないでしょう?」と言った。
松本は彼女の言葉に心を動かされ、少しだけ心の扉を開いた気がした。外の雨が止む頃、彼は女性に感謝を伝え、再び雨の中へと自転車を走らせた。
その日の配達を終えた後、松本はいつもと違う感覚を抱えていた。人との交流を避けてきた彼だが、女性とのほんの少しの時間が、彼の心に小さな変化をもたらしたのだった。
(おわり)
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もちろんこれも嘘である。実際は冷たい視線を浴びながら荷物を渡しただけだ。荷物が雨に濡れたのが気に入らないらしかったが、クレームがなかったのは優しさだ。松本がこの仕事を続けられるのは生きていくだけで精一杯の給料にしがみついているからではない。彼の妄想が彼の仕事を支えている。もし妄想が一瞬でも途切れたらペダルを一漕ぎもできないだろう。
もしかすると俺は異常者なのではないだろうか。同僚を見ていても、こんなことをしている人は一人もいないように見える。だから松本は何も言わずにいる。実はみんな妄想で仕事を支えているのか、あるいはそれなしで仕事をできているのか。松本は自分の正気を疑っているが、後者も存在しえるのか疑わしい。しかしそれがもし本当であったなら松本が自分の真実を表に出した時、彼は異常者の烙印を押されてしまう。だから態度にさえ出したことがない。
しかしもし全員が松本と同じことを考えているとしたら? 本当はみんな妄想で日々をつないでいるが、それを言うと異常者認定されると予見しているから微塵もそれを表に出さない。もしそうであるなら松本は最初の一人になるべきではないだろうか。
「俺はファーストペンギンにはならないぜ」
松本はそう結論付けると次の家にチャイムを鳴らす。出てきたのは中年の男だ。最初からケンカ腰だった。
「あぁん、雨で濡れてるだろうが。お前、金貰ってるならプロ意識もてよ」
松本は男の顔面に拳を叩き込む。平日の昼間から家にいるような男だ。死んでもかまわないだろう。
「お前、こんなことしてただですむと思うなよ。警察、警察だ」
「お前こそまだ助かると思っているのか? 警察なんて呼べないんだよ」
松本は男を蹴る。叩く。殴る。スマホがあったので天井に叩きつけて割る。ひびが入ったスマホが男の丸まった背中に落ちる。
「雨が降っていたら多少は雨で濡れる。それも分からないのか? お前人間はじめて何年なんだ?」
男は答えない。松本は返事を促すように蹴り続ける。
「答えろよ。答えるまで終わらないぞ」
「47です」
「なんで最初から答えなかった」
男が黙っているのでまた蹴り上げる。
というところで松本は現実に戻ってくる。こんなことは起こらず、松本はただうなだれて怒声を浴びていただけだ。
松本は深くため息をつき、自転車にまたがる。彼の心の中で繰り広げられた暴力的な妄想は、現実の彼をさらに疲弊させていた。彼は自分の心の中で起こったことに、ほっとしたような、それでいて何かを失ったような複雑な感情を抱えていた。
雨はますます強くなり、松本の体を冷たく濡らしていく。彼はペダルを漕ぎ続ける。次の配達先へと向かう彼の背中は、雨に打たれて重く湿っていた。
「こんな日は早く終わってほしい」と松本は心の中でつぶやく。彼の日常は、この繰り返しの中で少しずつ色褪せていくようだった。
彼が次の配達先に到着すると、今度は小さな子供が出迎えてくれた。子供は松本に向かってにこやかに手を振り、「ありがとう、おじさん!」と元気よく叫ぶ。松本は無意識のうちに微笑み、子供に手を振り返す。
その一瞬の交流が、松本の心に小さな温かさをもたらした。彼は自分の妄想が現実を歪めていることに気づき、少しだけ自分自身を見つめ直す機会を得た。
松本は再び自転車に乗り、雨の中を進む。彼の心には、先ほどの子供の笑顔がまだ残っていた。それは彼にとって、この雨の日の小さな救いだった。
(おわり)
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