夜が更けると、私はいつものように本棚の前に立つ。手に取るのは、古びた哲学書。なぜか?それは、このページが私の心の奥深くに触れるからだ。部屋の隅で、薄暗い灯りの下、私は読み始める。「存在と時間」という言葉が、重く、しかし心地よく響く。それはまるで、遠い記憶を呼び覚ますよう。私の思考は深まり、自分自身と対話を始める。「私はなぜここにいるのか?」と。この問いに、ページは答えない。しかし、それがいい。私は自分自身の答えを探し続ける。そして、知っている。この探求こそが、私の存在を定義する。ページをめくる手は止まらず、私の心は響き渡る言葉に満たされる。この夜は、無常で、しかし、そこに真実がある。そして、この瞬間に、私は確かに生きている。それが、何よりの証拠となる。
存在は理由に先立つ。私はこう問い直さなければならない。「存在してどうするのか」と。何のために存在するのかではなく存在して何をするのか。やることはソシャゲでガチャを引いて、ビールを飲むことだ。私はそんな人間なのか? 否、否、否、三度否とニーチェの真似をしても私はガチャを引いてビールを飲む人間以上の人間ではない。それを否定するのは自分がそんな卑小な人間であると思いたくないという卑小な精神からに過ぎない。私は偉大な人間なのか。否。こう問い直そう。私はなぜ卑小な人間なのかと。
私の指はスマホの画面をなぞり、ビールの缶は机の上で静かに冷えている。この繰り返しの行為に、深い意味を見出そうとする自分がいる。ガチャの結果はランダム、ビールの味は一定。そこにあるのは予測可能な快楽と、予測不可能な失望の狭間。哲学書に書かれた言葉たちとこの行為が、どう繋がるのか?存在の重さを問い直す中で、私はただの消費者に過ぎない自分を見る。ビールを飲み、ガチャを引く。この行為に何の意味があるのか、自問自答する。しかし、その答えはいつも曖昧で、私の心は満たされない。存在の意味を探求する旅は続くが、終わりは見えない。だから私は、またビールを手に取り、スマホの画面を眺める。この繰り返しの中で、何かを見つけ出そうとするのだ。
ビールの味が一定という答えは訂正しなければならない。6杯目のビールを口に入れた時、それはもうただの冷たい液体という感覚しか私にもたらさなかった。ビールなんて嫌いだ。酔えば頭は悪くなるし、腹には欲しくもない脂肪がつく。それなのに私はビールを飲む前にはたしかにある種のきらめきを覚えていた。ありていに言えば飲む前から幸せを感じていた。飲んでいる最中より飲む前が幸せだったかもしれない。それはガチャだって同じだ。ガチャを引く前ほど高揚感のある瞬間はない。しかしガチャのボタンを押した瞬間からその高揚感は醒め始め、引き終わった後には虚無しか残らない。これは一体なんだ?
馬鹿だ。私は馬鹿だ。絶対に後悔すると確信しながらビールを飲みガチャを引く。もしSSRが出ても私は喜びよりも損をしなかったという後ろ向きな幸せを感じるだけだ。いやこれはおそらく幸せではなく不不幸だ。幸せの二重否定だ。始めからガチャを引かなければ不幸の否定を期待する必要さえないし、おまけにこれは絶対に幸せにたどりつけない行為だ。そして私はこれが終わって欲しくないと思っている。正気とは思えない。それでも私はまたビールを飲み、ガチャを引く。その寸前の一瞬だけ私はたしかに幸せを感じる。
(おわり)
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